罪の咎のような重くるしい気持ち
恭子の死後、一度だけだが彼女の夫で同僚でもあった高梨と語り合ったことがある。恭子の一周忌の法要の折、意外なことに来栖も招かれた。前もって早々と届いた書状を前にして迷ったのだが出席の返事を出した。
その時点ではどのような理由で呼ばれたのかはっきりとは分からなかったのだが、嫌でも出向けば納得できていない恭子の死につき何らかの決着を心の中でつけることができるかもしれないとの思いで決断した。
浄土宗の系列の宗派と思われる僧侶の読経から始まって、参会者が順に線香をあげて故人の冥福を祈っていく。法要そのものが終わると、来栖を含め皆の視線は仏壇上の故人の写真や僧侶の顔から次第に転じて故人の夫のほうに向けられる。
いまだに喪に服しているという雰囲気を漂わせている高梨自身はというと、彼の視線は居合わせた人たちの中の一人の女性に終始注がれている。どうもこの法要を取切っているのはその女性のようで、招かれた客としばしの間居残った僧侶に、仕出し屋から取り寄せたと思われる料理がいきわたるよう、手際よく差配してくれている。彼が推し量るに、恭子とその夫の両方と親しいつき合いをしていた友人の一人なのだろう。
彼女が招かれた客への応対から今行っている食事の面倒まで一人で仕切っているのに対し、高梨のほうは彼女の働きぶりには注目するものの、周りで行われていることには一切頓着しないという態度を見せていた。
床の間から見て、座卓を挟んで両側に設けられた席の中で主催者用とは思えない位置に座したままだ。泰然と座ったままで、参会者の顔を順に眺めている。それでいてその落ち着きはらった物腰から、対角線上目の前にいる来栖という男が自らの配偶者とはどのような関係にあったのかなど既に熟知してしまっているようにも見える。というのも彼のほうがそれとなく高梨のほうを見やると、彼の視線もこちらに向いているということに気づいたからだ。