フィリピンの現代史
長々と平瀬と話をしているところへ八若丈が店に入ってきた。
「こんにちは。お二人で何のお話ですか」
「平瀬さんからフィリピン現代史についてのレクチャーを受けていました。ジョーさん、今日は日曜出勤ですか」
「夕方グループが一本入るんで」
「どこのツアー?」と平瀬が話に加わった。
「トラスコさんです」
「じゃあ、農協さんですか」
「ええ、山形の農協さんみたいですね」
「何人のシアーですか」
「六〇人くらいだったと思います」
次々と平瀬の質問に丈は答えていた。
「この暇なご時世に二台バスですか。うらやましいなぁ。それじゃ、私もこれから仕事なんで」
ガラス越しに見えるアンバセダーホテルの玄関にマイクロバスが止まった。話の最中もちらちらと外を気にしていたのは、お客さんの到着を注意して見ていたからだった。
「平瀬さん、今日は勉強になりました。また来ますので色々教えてください」
「ええ、それではごゆっくり」
平瀬は小走りでマビニ通りを渡り向かいのホテルへ入っていった。
丈はアイスティーを注文して、正嗣の前のさっきまで平瀬が座っていた席に移動した。
「ジョーさん、ここ平瀬さんの店って知っていましたか」
「ええ、よく来るんで」
「マルコス王朝がいかにしてできたかについてご教示いただいておりました」
「あの人はマルコスが大統領になる前からマニラにいるから詳しいでしょうね」
いつだったか、畦上が在比邦人社会の主の一人だと言っていたのを思い出し、そんなに長くいれば色々知っているはずだと納得した。
「マルコス政権は今後どうなるんでしょう。イメルダ夫人に引き継がれるんですか」
さっきまで平瀬にぶつけていた疑問を今度は丈に投げかけた。
「それを国民が許すかどうか分かりませんけどね。でも、国民は独裁政権に完全に麻痺しちゃっていますからね。政権交代するとすれば、誰がマルコスに代わるかです。野党連合であるUNIDO(民主国民連合)のラウレル総裁も今一小粒だしね。今アメリカにいるニノイは知っていますか?」
「いえ、誰ですか、その人は」
「ベニグノ・アキノ・ジュニア。ニノイのニックネームで国民に親しまれ、マルコスの最大のライバルだった元上院議員ですよ。戒厳令発令と同時に政府転覆容疑で逮捕・投獄されて、後に軍事裁判で死刑宣告を受けたんです。でも、国民に絶大な人気があったんで簡単には処刑できなかった。そして、獄中心臓病で倒れてしまった。マルコスはこれ幸いと思い、三年前にアメリカへ心臓のバイパス手術を受けに行かせたんだけど、これは実質的な国外追放と言われている」
「へぇ、そんな人がいたんだ」
「巷ではそのニノイが帰ってくるかもしれないってウワサがあるけど、今帰ってきたらきっと殺されるよ。でも、今のフィリピンを変えられるのはきっとニノイだけだよ」
この時正嗣は丈が話していたニノイ・アキノなる人物を知らなかったが、なぜか興味が湧き知りたくなった。