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マルコス王朝
長期政権に君臨する独裁者というくらいしか正嗣は知らなかったので、マニラ日本人社会の主である平瀬に聞いてみた。平瀬は分かりやすく噛み砕いてマルコス大統領について教えてくれた。
フィリピン共和国第一○代大統領、フェルディナンド・マルコス(以下FMと略す)、ルソン島北部のイロコス・ノルテ州出身、六五歳(一九八三年八月当時の年齢)。下院議員の父親の選挙中に対立候補が銃殺されるという事件が起こり、当時二〇歳でフィリピン大学のライフルチームに所属していたFMに容疑がかかり有罪の判決を受ける。
ケソン大統領の恩赦を受けるも、これを拒否して収監される。刑務所内で自分の裁判の準備と司法試験の勉強をして過ごす。翌年最高裁で無罪を勝ち取り、後に司法試験にもトップの成績で合格する。第二次世界大戦中は抗日ゲリラを指導したという話になっているが、確かなことは不明。
一九四六、四七年の二年間ロハス大統領の補佐官を務め、四九年に下院議員に初当選。この時の選挙のキャッチコピーが「私を下院議員に投票してください。そうすれば二〇年で大統領になります」というものだったとか。
五九年に上院議員に鞍替えし、六二年から六五年まで上院議長を務める。六五年の大統領選挙において、所属していたリベラル党の候補に指名されなかったため、ナショナリスタ党に移籍し大統領候補に立つ。そして、対立する現職のマカパガル候補(第一四代大統領グロリア・アロヨの父親)を破り大統領に就任する。四八歳の時であった。
任期の四年間に米の生産性を飛躍的に向上させ、道路、学校、病院等のインフラ整備も進めた。この実績が評価され、六九年の大統領選挙にも再選される。しかし、二期目の治世時にインフレ問題、失業問題、共産ゲリラ組織である新人民軍のテロ等の諸問題が発生する。この時の憲法では大統領の三選を禁止していたが、更なる政権長期化の野望を持つFMは憲法改定を画策するも失敗。
そこで、七二年反政府勢力から国家を守るためとしてフィリピン全土に戒厳令を発令する。確かに新人民軍のテロ活動は激化していたし学生らの反政府運動も活発化していたが、これらは口実に過ぎず、これを機に反マルコス派の政治家、活動家、ジャーナリストたちを一斉に逮捕・拘束した。
この戒厳令によりこれまでの憲法は停止され、大統領職と首相職を兼任することを認める議院内閣制の新憲法を制定し、FMは独裁政権を磐石のものとした。一九八一年のローマ法王ヨハネ・パウロ二世の訪問の前に戒厳令は解除されたが、反政府活動に対する治安権力は維持されたままで民主主義国家とは程遠い状況は続く。
といった内容のことを平瀬は話してくれた。時折観光客の前でマイクを取りガイド紛いのことをやっているだけあって、話のツボをよく押さえていて理解しやすかった。