Ⅲ
母親の死と前後する頃から現在に至るまで、「死んでしまった肉体」というような具体的で有形のものから出てくる「死」の事実であれ、抽象的概念としてのものであれ、「死」という観念は来栖の中に定着し、今日まで生き続けている。
それに加え、自身も含めて一人一人早ばやと死の時を迎え、家系の者全ては死に絶えていくのではないだろうか、という予感めいた思いまで覚えるようになった。さらに母親の死後三年ほど経った頃、末っ子の弟もノイローゼの兆候を見せた挙句、故意なのか偶然なのかもわからないままに、通勤路の途中にある川で溺れ死んでしまうということも重なった。
情緒不安定で、時折思いもかけない言葉を発したり奇行に走ることもあった弟とはいえ、このように近しい係累の者に具体的に表れてくる言動が、統合失調症気味とかその他何らかの精神障がいの病質から生じてくるものだとは認めたくなかった。精神的疾患を発症したかどうかも曖昧模糊として確かめようもない。
家族の何人かが不眠や極度の体調不良から死を迎えてしまったという帰結からみて、彼の家系には何世代も前から宿痾の病が何がしかとりついているようだと思わないではおられなかった。
そのためか、朝の洗顔後に鏡で自分の容貌を点検するようなこともやってみた。来栖自身も肉体的なものなのか精神的なものなのかはっきりわからないが、母親や弟が不幸にみまわれて以来、変調をきたした時期があった。出勤時が迫っているというのに家を出て駅に向かうという具体的で差し迫った日常の行動に移ることすらそのまま忘れてしまう。
洗面所の鏡に映して自身の顔をまじまじと見てしまい、「死」という観念を起点にしてあの世を見ている、あるいはあの世を確信しているという眼差しというものがあるのではというような馬鹿げた思いにふけっている。そうかと思うと、自分は今生の最後にいるというよりも、既に彼岸にいて、鏡に映し出されたこの世の自分を眺めているというような、奇妙な錯覚を覚える。
特に映し出された自己の眼を眺め、その視線の風情を考えると、自らの眼はおこがましいことだが「末期の眼」に近いような雰囲気を出しているのではないかと思える。あの娘も若いにもかかわらずそのような眼を持っていたのではなかったかと連想してしまう。ひょっとするとその類縁性に気づいたからこそ、それが正しいのか間違っているのかとは関係なく、百合には関心を持たないようにと努めていたのかもしれない。
百合の死を知った後は、彼女からなるべく遠のいたままでいたいと望むようになったのは確かだ。それにもかかわらず現実には彼女のことを無意識のうちに思い出してしまうのは生きていく上で蒙ってしまう心的アクシデントというものかもしれない。彼女は実際に若くして死んだので「末期の眼」が備わっていると、今頃になって強引に結論づけようとしている。
牽強付会の論理というものが可能とするなら、自分でも時々そのような無理な理解の仕方を振りかざしてしまうことがあると自覚していた。