Ⅲ
引っ越しの時に見せた恭子のまなざしがどういうわけか来栖の印象に強く残っていたようで、彼女と二度目に会った時もその記憶がよみがえり、相手の目線の感触で彼女だとわかったぐらいである。
女性が気になり記憶に残るような時には、初対面での容姿よりも「目つき」の印象がいつも決め手になっていた。来栖の場合は一〇代の青春期からいつもそうだった。
高梨家の引っ越しから三年後に彼は広告代理店を退職し、都の足立区役所に中途採用で職を得ていた。その職場で働き始めてから四年目の頃だから結局高梨家の引っ越しを手伝った時から七年余りの月日が流れていることになる。
引っ越しのことも恭子と再会したから思い出したので、その間引っ越しを手伝ったことなど全く忘れてしまっていた。
そのような事情にもかかわらず恭子の過去の面影だけがすぐに目の前の彼女に重なったということで、彼はそれほどに強烈な印象を恭子が与えていたのはどういうことなのかと自分に問いかけたくなるほどだった。
来栖には知人の一人でアマチュアの版画家がおり、
「一週間の開催期間を設けたグループ展に参加しているからよかったら見に来てくれ」
ということで出かけた展示会での再会だった。この二度目の出会いから来栖は彼女と話を交え、個人的に知り合い、つき合いも深まっていく間柄になったといえる。
のちに「眼フェチ」「視線フェチ」という言葉で異性に対する性癖を自身で揶揄的に表現することになったのも、恭子から百合へと連鎖でつながる体験に根ざしている。来栖は最初会場で恭子を見かけた時には、
『どこかで見かけたことがあるこの人は誰だったかな?』
と自問するだけだったが、ここでも人間の持つ目全体の動きや視線の向け方に表れるニュアンスが決め手になった。
会場での恭子は単に絵画に見入っている女性という印象だけだった。しかし横顔からだけでもその目と視線の動きで、来栖は彼女だとわかった。
彼は脇から少し前に回り込み、恭子が引っ越しの折に見せたまなざしを確かめた。殆どその時点で彼女に近づいてみたいという気持ちにもなっていた。
彼女への関心がもう高まっていたのか、
「あっ、高梨さんの奥さんですよね」
と積極的に問いかけていた。彼には珍しいことだ。
「こんなところで失礼ですが、引っ越しの時にお邪魔した来栖ですが」
「あら、いつぞやは本当にお世話になりました」
「どうもずっとごぶさたしておりました」
「いえいえ、こちらこそ、厄介なお引っ越しを手伝っていただいたのに、その後お礼もしませんで、失礼申しあげました」
話の接ぎ穂を探しながらのありきたりの挨拶に相手が丁寧に応じてくれるのをみすまし、来栖は相手を会場入り口から左右に広がるロビーのほうへと誘っていた。