「クラブ」と「ロータリアン」
僕が地区ガバナーになることが決まったとき、先輩ロータリアンの弁護士先生MH氏が僕に優しく言ってきた。彼の胸にはいつも弁護士とロータリーの二つのバッチが付いている。彼はこう尋ねてきた。
「君は、この二つのバッチのうちどっちが大切か分かるかい?」
……相手は弁護士先生だ、商売上の弁護士バッチの方が大切に決まっているだろう?
彼は続けて言った。
「弁護士バッチは自分の努力次第で付けることができる。でもロータリー・バッチは誰かの推薦と皆の承認があって初めて付けられるモノなのだよ。だから、ロータリー・バッチは、君が立派な社会人であることを証明してくれる大切な証明書なんだよ」
また、違う機会にクラブの大先輩の内科医WT先生に聞いたことも思い出す。
先生は、例会においては白衣をスーツに着替えて、その胸にはいつもロータリー・バッチを付けている。
僕が聞いたのは、
「WT先生、うちのクラブの例会は開始時刻が一二時一〇分からですが、それは午前の診察にとって窮屈ではないのですか?」
先生はこう答えた。
「町中には多くの内科医がいるから診療の心配はいらない。だけど、このクラブには内科医は僕一人だ。クラブにとって僕は必要な存在なのだと思う。だから例会日の午前の診察は早めに切り上げて、こうして例会に来るのだよ」
僕の胸には込み上げる何かがあった。
それ以来、僕はロータリー・バッチを常に付けることにしている。
因みに、孔子が説いた言行集『論語』(足利市教育委員会編『論語抄』史跡足利学校事務所 一九九三年)には、次の教えがある。
モノゴトの真理を知る大切な教えだ。
「子曰く、之れを知る者は之れを好む者に如かず、之れを好む者は之れを楽しむ者に如かず」 (原文)「知之者、不如好之者 好之者、不如楽之者」
つまりは、
「ロータリアンは、ロータリーをただ知る(勉強する・知識を持つ)だけではなく、ロータリーを好きになり、さらにはロータリーを楽しむまでに至ってこそ本物になれる」
ということだ。巷間、ロータリーの歴史やら物語を各種文献や伝聞によって収集し、それを得意そうに披瀝する軽量のロータリーオタクがいるが、皆さんはそんな者に惑わされてはいけない。
知識を得る努力はときに必要だが、大切なのはロータリアンとしてのスピリッツを体得し、保持することだ。不易流行、ロータリーの底流に脈々と流れ続けてきたロータリー精神、それを知って、好み、楽しむことこそが大切なことである。