ある時から診察のたびに、「食事を載せるカートに足を踏まれて、歩けなくなった」と訴える男性がいました。ほかのことは忘れているようですが、踏まれたことだけは、何度も何度も数ヵ月間診察のたびに訴えていました。
こういう嫌な出来事は、その時感情の動きが大きく、情動と関連が深い扁桃体(へんとうたい)という脳の部分が活性化され、隣接している海馬を刺激し、記憶に刻まれやすいそうです。
現役で社会生活を送っている私たちの記憶は、どうでしょうか? 仕事をしている時は、していることに関しての考えに集中して、ほかのことはあまり意識にのぼってきません。
そして、仕事を仕上げるためには、仕事に関する記憶は必須です。もし、1時間前にしたことや昨日したことを忘れたりすると、仕事をスムーズに継続するのが困難になります。
本を読んだり、ドラマを見たりするのも、登場人物や設定などを忘れてしまうと楽しめなくなります。
一方、昔の記憶に関してはどうでしょうか? 昔に関する話題を誰かと話したり、写真を見たり音楽を聴いて思い出したりなど、必要な時には記憶を紐解いて思い出すことができます。
それぞれの時間や事柄に対する記憶は、いわばそれぞれのタンスの引き出しの中にきちんと整理されているようなものだと思われます。そして、必要に応じて適切なタンスの引き出しを開けて、必要な記憶を取り出すように思い出しています。
一方、高齢になり、認知症が進んでくると、一つには時間の見当識が障害され、時間の感覚が自覚されにくくなります。
新しい記憶はあまり残らないので、心に浮かんでくるのは、過去の日常生活の記憶や、特に心に残った事柄が繰り返し思い出されます。
まるで、毎日心に浮かんでくる思い出の中で生活しているかのようではないでしょうか。
もし自分がそうなったら、できれば楽しい思い出に浸って毎日を過ごしていると良いなあ、と思います。