【入院】・運命の昭和59年
2月13日未明から、関東平野部にも積もるほどの大雪が降った。大雪なんか見たことないし、こんなに積もるとはなかなかのこと。僕は遊びたくてウズウズし、テンションが上がっていた。大雪の影響で学校は授業がなく、終日校庭で雪遊びができた。
太陽に反射されギラギラ光る冷たい雪。僕は雪焼けした。この記録的な出来事にみんな興奮していたのか、そのときなぜか集合写真を撮った。あとから見たその写真に写る僕の顔は頬が真っ赤になっていて、蝶が羽を広げたような蝶形紅斑となっていた。日中、雪のなかで遊んでいたので、夜になると目が雪でチラつくような雪眼になってしまった。同時に40度近い熱が出てきた。
「明日はバレンタインデーなのになぁ。まあ、もらえないのはわかっているし、休めるならいっか!」なんて気楽に思っていた。翌日、熱が下がらないので学校を休んだ。不思議と食欲はある。てんやものを母親が珍しくとってくれると言うので、喜んでカツ丼をお願いし、40度近い熱があるのにペロリと平らげた。
母親から状況を聞いていた東京の叔母が心配して電話をくれる。母親は「元気なのに熱が下がらない」と漏らしていた。叔母はお見舞いに船のプラモデルとカツ丼が買えるようにお金をくれた。
発熱から2週間経った。熱は依然40度近いまま。母親はタクシーを呼んで雪がチラつくなか、病院に僕を連れていく。その病院の医者は、「甘ったれた息子だな。水泳でもさせて鍛えたらいいんだ」と言い放ったと後に母親から聞いた。これには呆気にとられたなあ、さすがに。
その後、2件ほど病院を回ったが原因はわからずじまいで、とうとう横浜警友病院(現けいゆう病院)という大きな総合病院に入院した。発熱とは関係ないが、右の鼻に潰瘍らしきものがあったので、硝酸銀液で焼いた。それがとても痛かったのをいまでも思い出す。
「いよいよ病人だな。でも一体何の熱があって、何の病気なんだか?」
入院して10日くらい経った頃、初めてそう思った。当時は何も考えてなかったから呑気なものだったが、そのとき宗教とやらを初めて知ることになった。同じ病室の親御さんが宗教にハマっていたのか、僕に「南無妙法蓮華経と唱えると楽になれる」なんて言う。子ども心に「そーなんだ。じゃあ唱えよう」と実行してはいたが一向に良くはならないし、そのうち止めた。
偶然なのか、担任の先生も見舞いに来たとき、何かの宗教のことについて教えてくれた。でも、僕はこの担任が大嫌いであったこともあって、宗教を生理的に受け付けなくなった。
後日、僕がSLEと診断され東京医科歯科大学病院に入院していたある日、父親の同僚から電話があった。その人は宗教に入っていて、「ある聖水を注射すると病気が治るみたいだ」と父親に勧めたようだ。
父親も本来なら宗教を嫌っていたのだけれども、息子の僕が難病に罹って精神が不安定だったのだろう。その同僚の人もぜひともと勧めてくるけれど、ならば、「その聖水とやらで入院している小児科の全員を救えるのか? 小児癌で苦しむ病院で仲良くなった友だちを救えるのか?」と内心怒りにも似た感情がわいた。
「気休めに過ぎないし、そんなもの信じない」と僕は父親にきっぱりと言った。46歳になったいまでも宗教は胡散臭いと思っているし、何度も勧誘されてきたが、うまいことかわしてきた。
なぜなら病院のなかで宗教信じて拝んで勧めてくる人はみんな亡くなったのだ。信じる者は救われるのかもしれないけれど、死んでは何にもならないし、神に頼った意味がないじゃないかと、罰当たりかもしれないが、僕は強く心からそう思う。