漁火

店の名は「漁火」。

智子が名をつけた。名は売った漁船の集魚ランプに由来し、店には船を売る前に三つほど外した烏賊釣り用の集魚ランプを飾りとして天井からぶら下げた。

この集魚ランプは客の漁師たちにも受けがよく漁火の名とよくマッチした飾りだった。

店をオープンした当初は、漁火という名は色恋沙汰で残った後家が男を誘い込むには丁度いい名だと辛辣な陰口を叩かれた。

しかし、智子のリーズナブルな値段設定とほどよいサービスは次第に漁師たちの間に根を張っていき、智子もいつしか実直な漁師の妻から歯の浮くような世辞も平気で言える飲み屋の女将に変わっていった。

飲み屋は酒屋とは違い酒を売るだけの商売ではない。

意外にも智子は媚を売ることに長けていたのか、元々女には窺い知れない才能が潜んでいるものなのか漁火の経営を軌道に乗せ、見事な手腕を振るう智子の商才に開業を反対していた親戚を始め周りの者たちは皆が驚いた。

漁火の経営で母子二人の生活は何とか維持ができるようになり、智子は誰に頼ることもなく女手一つで娘の美紀を高校まで上げることができた。

美紀がまだ小学生だった頃、智子は店が終わって夜遅く二階に上がって来ると毎日のように既に寝ている美紀の頭を何度も撫でた。美紀も夢の中で母に撫でられているのを薄らと感じていた。美紀には思い出すと今でも涙が出る思い出だ。

この商売は身持ちの堅さが長続きのコツだと智子によく聞かされたが、智子は女の媚を売る商売なのに商売を始めた日から女を捨てたようで、美紀は浮いた話を一度も聞いたことがなかった。

尤も、スナック漁火の開店中は母が怒るので階下にはめったに行かなかったし、店内で起こっていることはよくわからなかったが、母の智子は娘の成長だけが唯一の楽しみのようだった。少なくとも娘の美紀にはそう思えた。

美紀が高校を終えて就職し結婚するまで智子と一緒に暮らしていた頃は、店の終わるのが遅かろうが早かろうが必ず朝六時には朝食を摂った。

朝六時前になると階下から「美紀〜、時間だよ〜」と智子の声が掛かり、美紀は智子の声を目覚まし代わりに布団から起き出しては身支度を整え朝食を摂って学校や職場に出掛けたのだった。

夜の遅い仕事で疲れや眠気が無いわけはなかったのだろうが、美紀は智子の寝ている姿を見たことがなかった。