三か月前
永吉の母は、二人いた。生みの母と、育ての母である。永吉の生みの母は、夫が早くに亡くなったこともあり、普通養子縁組として永吉を養親に預けた。また生みの母も、同じ屋根の下で、養親と共に永吉を育てたのだそうだ。
二人の母のうち、生みの母は既に他界している。つまり今話を聞いているのは、育ての母である。
複雑な環境で暮らしていた永吉だが、離婚の原因は計り知れない。一番の要因は、永吉の生みの母が、過保護だったからだ。
生みの母は、永吉の妻である有花を憎いと思っていたそうだ。理由は分からないが、家族で食事をする時には、有花へ出す料理は魚一尾のみだったという。有花は悔し涙を堪えながら、食事をとっていたそうだ。
永吉が、仕事で帰りが遅くなった時のことだ。妻はその帰りを待って「おかえりなさい」と声を掛けてあげたいのが、心情である。しかしその役割も、生みの母がやってのけた。いや、もっと言うと、生みの母は永吉に対してわざと過保護に接する事で、有花の妻としての役目を全て奪っていくのだった。
遂に有花は、一人寝室で夕食をとるようになった。
その話を聞かされて、蓮は急に、ここに来た事を後悔した。蓮が、有花と一緒に寝室で夕食を食べた、いつかの記憶を思い出したからだ。それは今でも蓮の記憶の中に、鮮明に残っていた。ただ、その記憶がまさか姑との関係が原因であったとは、知る由もなかった。
祖母は相変わらず険しい表情で、斜め下を向いたままだ。
蓮は、自然に滴り落ちる涙のせいで、話す言葉を無くした。一心に、祖母の話を最後まで聞く事しかできないでいた。
祖母はというと、十九歳になっている蓮を見て、全てを打ち明けてもいいだろうと思っていた。話を聞く蓮の心境を考えると、祖母もまた、胸が締め付けられる思いでいた。
ひくひくと震える声を出し始めた蓮に気づいたのか、祖母は傍にあったティッシュを差し出しながら、話を続けた。
永吉は母親想いだった事もあり、生みの母に対して厳しい言葉を言えなかった。永吉からすれば、家に帰ればいつも二人の母親同士の喧嘩、嫁姑同士の喧嘩である。そこに永吉と祖父が加わり、さらに喧嘩の度合いは増していった。
やがて永吉は、家に帰らないようになった。永吉は外で女性と交際した。所謂不倫だ。
蓮は、複雑な心境を抱いた。自分がこれまで抱えていた悩みや苦しみも、どうする事もできない原因によって生み出されたものであった。
蓮は、誰を恨む事もできないでいた。ただ涙は止め処なく流れてくる。そして、ここに来るまでに耐えられなかった永吉への想いは、更に強くなっていくのであった。
また、有花が感じていた憤りを初めて知った蓮は、有花に対するもどかしさも感じた。有花は、孤独だったのだ。その状況の中で我が子を育てていく事が、どれだけ困難を極めただろうか。
蓮は、その時の気持ちを、直接有花に確かめる事はできないし、したくない。
おふくろはこの家に、自分の居場所を無くしてしまったのだろうと、蓮は悟った。
同時に蓮は「知らぬが仏」という言葉を思い知らされた。過去をむやみに掘り起こすと、余計に傷ついてしまう事もあるのだ。
しかし、まだ永吉との再会を果たしていない蓮にとって、それが唯一、あと一歩先に踏み出す力となった。