三か月前
家の中は物音すらしない。時々、壁か屋根かが軋む音がする。
木造二階建てのその家には、両親が離婚した小学一年の春に、有花と、兄の省吾と一緒に移り住んだ。
縁側に座ると、遠くで野良猫が鳴く声が聞こえてきた。庭の前には、桜の木が一本、どっしりと佇むようにして突っ立っている。
その木は、春になると、どんぐりよりも小さな蕾から、一年待ち続けた桜の息吹が満開に咲き乱れる。
蓮が幼い頃は、縁側に座ってよく絵を描いていた。
縁側は、蓮にとって一番好きな場所だった。なぜなら、その頃飼っていた三毛猫のミケが、膝の上にちょこんと座ってくれるからだ。ミケはぐるぐると喉を鳴らし、細くて長い尻尾で蓮の膝を優しく叩いた。
春風に揺られて流れ落ちる桜吹雪を、縁側に座ってミケと一緒に写生する事が、蓮は好きだった。
蓮の芸術的な才能は中学で開花した。学内の写生大会では、特選、デザインコンテストでは県内でも優秀賞をとるレベルだった。
桜の木は、今は緑の葉で覆われ、また来年やってくる開花の時期を、今か今かと待ちわびている。
蓮は、居間のテーブルに置きっ放しにしていた車の鍵を取り、外に出た。その瞬間、灼熱の陽気のせいで、体から大量の汗が一気に噴き出した。
鋭く突き刺さってくる日差しを手で塞ぎながら、車の運転席側のドアを開けた。車中からはむっとした温風が、顔全体を覆ってきた。蓮はすぐにエンジンをかけて、冷房全開まで調整した。
すると、乾いたNAサウンドが、マフラーから目の前の山林に響き渡った。
遂にこの日が来たんだ。蓮は、唯一の父親である永吉に、十年ぶりに会いに行こうとしていた。
社会人となった蓮は、高校時代に親しかった友人とも離れ離れになり、大手医療メーカーの製造部に勤務する事になった。
中学高校と野球馬鹿だった蓮にとって、将来の進路はまるで定まっていなかった。
仮に大学に行くにしても、そんなお金を出す余裕はおふくろにはないだろうと考え、最初から進路の選択肢からは外していた。
蓮は、企業から学校へくる新入社員募集要項の中から、担任の先生と有花が勧めてくれた会社を選んだ。
入社してからは、仕事に徐々に慣れていくにつれて、蓮は永吉の記憶を思い出さずにはいられなかった。
丁度、永吉の誕生日が七月七日の七夕の日だった事を覚えていた蓮は、その日が近づくにつれて、父親という存在が自分の胸中に収まりきれなくなっていくのだった。
両親が離婚したのは、蓮が小学一年の時だったと記憶されている。