武臣政権の誕生
『朝鮮の歴史・新版』の「第四章 高麗の国家と社会」の118ページには、「武臣政権の成立」として朝鮮における武臣政権の成立の様子が次のように記されています。
【一一七〇年八月、毅宗が開城郊外の普賢院に行幸した時、警護に当たっていた武臣が突如文臣を襲って殺戮し、そのあと直ちに都に戻り、軍人と一緒になって王宮内外の多くの文臣を殺すという事件が起こった。
いわゆる庚寅の乱である。反乱を計画したのは鄭仲夫・李義方・李高らの武臣であり、彼らは文臣殺害の二日後には毅宗を廃してその弟の明宗を立て、自分たちで政権を掌握した。
これがこのあと100年間続く武臣政権のはじまりである。
一一四六年に即位した毅宗は享楽を事とする国王であり、各地に池を掘っては山を築き、多くの別荘を建てた。
文臣が毅宗に随行して別荘や寺院をめぐり歩き、王と一緒に游宴を楽しんだのに対して、武臣は警護に動員されるだけでなく、游宴の場において武技を演じさせられ、その際に文臣から屈辱を受けることが少なくなかった。
普賢院での文臣殺戮は、武臣の積もりに積もった怒りの爆発であり、また、日頃から別荘築造などの土木工事に動員されるばかりであった軍人が武臣に加担したのも当然のことであった。】
このようにして、武臣によって文臣は殺戮され尽くされて再起不能となり、その結果として、武臣政権が誕生しました。
武臣政権では、執権が李高→李義方→李義旼→鄭仲夫→慶大升→李義旼→崔忠献と、かつての同志であった者が殺し合う凄まじい権力闘争を26年間展開しています。
『韓国の歴史教科書』53ページには「武臣が政権を握る」として『朝鮮の歴史・新版』と異なる次の記述があります。
【武臣たちは長らく続いた差別待遇や、文臣第一の政治に不満を抱いていた。低待遇やさまざまな雑役に苦しめられた下級軍人の不満も大きかった。
このような支配体制の矛盾により、武臣政変が起こった。鄭仲夫ら武臣は多数の文臣を殺して国王を流罪に処した後、政権を掌握した。
武臣は主要な官職を独占しただけではなく、競うように土地や奴婢を増やしていき、それぞれ私兵を育てて権力争奪戦を繰り広げた。
崔忠献が執権すると反対勢力だけでなく社会矛盾に抵抗する農民も弾圧しながら権力を強化し、4代に渡って60年あまりの間権力を世襲した。】