中井1
(勝った!)中井は思った。だがこれは間違いだった。中井が手にしたものはマッチポイントであって、決してチャンピオントロフィーではなかった。カラスは第二セット終盤とは違って追っても追えないから追わないのではなかった。戦略的に、意図的に追わないと決めて追わなかった。
もし中井が勝利の幻想に惑わされず、謙虚な姿勢で最後の一ポイントまで攻めていたのであれば、こんな結果にはならなかっただろう。
中井は最後の最後に最大の過ちを犯す。アドバンテージ中井、アドサイドからカラスサーブ。ファーストサーブは失敗。セカンドサーブ、スピンをかけて確実にコートへ。一応、中井のバックサイドを狙う。甘いサーブだった。中井はフォアに廻り込んでストレートでも逆クロスでもどちらでも打ち込める状態だった。
廻り込んでフォアでなくとも、踏み込んで前で捉えてバックハンドの強打、あるいは体重を前に移動させながらバックハンドのリターンダッシュ......いくらでもあった。だが中井の選択はドロップリターンだった。最悪だった。中井は第二セット終盤の残像を、幻影を見ていた。
中井はネットを恐れ、山なりの、中途半端な、勢いを殺していない球を打ってしまう。野球のピッチャーがスローボールでタイミングを外す為には『全力で』スローボールを投げなくてはならない。中井のそれはまさしく魂の込もっていないスローボールだった。中井は勝利を確信(実際には誤信しているのだが)しているのでニュートラルポジションに戻っておらず、棒立ち。
その時だった。カラスが猛然とダッシュ。あっという間にボールに追いつく。手負いの猛獣が獲物を捕らえるが如くだった。丁度いい具合に腰の高さに弾んだイージーボールを、親の仇が如く、これでもかという勢いのボールを相手コートに叩き込んだ。中井は一歩も動けない。すべてが真っ白になった。その瞬間に歓声は無い。悲鳴も無い。言葉も無い。囁き声さえ無い。勿論拍手も無い。会場は時が止まり真空状態となった。ただ再び動き始めた時間の中で、チェコの応援が、応援団だけが狂喜乱舞の大歓声だった。