決勝の相手はエミール・カラス。旧チェコスロバキア出身。偶然中井と同い年の二十一歳。当時は、無名の若手選手の一人に過ぎなかった。

「か〜らぁす、なぜ鳴くの? カラスの勝手でしょー」中井は馬鹿にしていた。油断していた。日本語音で『カラス』と表音される姓(苗字)は、チェコスロバキアだけでなく東欧では決して珍しくない。公でこの様な不謹慎な言動は、絶対に許される事ではないが、中井は控室など一部限られた狭い空間では暫し発していた。

あとにして思えば中井の小心の裏返しであったが、表面上だけでもアドバンテージを持っていたいという気持ちも分からないではなかった。事実、中井有利の材料は山ほどあったのだ。

中井が余力を残して勝ち上がっているのに対し、カラスのそれはヨレヨレだった。これといった武器を持たないカラスは粘りのテニスに徹するしかなかった。ストローク中心のプレースタイルは一ポイント一ポイントが長くなり、必然的に試合時間も長くなる。蓄積された疲労で全身に異常をきたしていた。フルセットになった土曜の準決勝は、メディカルタイムアウトもルール限界まで使用している。

加えて中井は一時からの開始だったが、カラスは三時。三時間を超える熱戦だった為、終了は日没時刻を越えていた(会場は照明を使用)。ドロー運といってしまえばそれまでだが、あまりにも不公平な決勝の組み合わせだった。二人はセミファイナルの夜を、真反対の状態で過ごす。