夏祭り
梅雨は漁師泣かせである。重いゴムのカッパを着て行う船上の作業が鬱陶しいのだ。その鬱陶しい梅雨が明け、志摩地方も一気に喧しく蝉が鳴く夏を迎えた。志摩市港町の小学校も夏休みに入り、男の子も女の子も子供たちは雨の日以外は毎日近くの浜辺に泳ぎに出て漁師以上の日焼けした顔になった。
港町では、毎年八月初めの土曜と日曜の二日間を掛けて夏祭りが催される。
この夏祭りの二日間は、漁師たちも漁を休み、港町は町中が祭り一色に染まるのだった。この夏祭りは、港町の小さな氏神を祭った神社の例祭が縁起で、蘇民将来の厄除けと大漁を願ったもので古くから行われていた。
腹に晒しを巻いて揃いの白い法被を着た男たちが港町の男の心意気を示そうと重い神輿を担ぎ、その後ろにも神輿を担ぐ交代要員がゾロゾロと行列を作り町中を練り歩くのだ。祭の幟が立つ神社に設けられた会所には世話役たちが詰め、氏子の女たちが交代で湯茶の手伝いをするのが昔からの決まりになっていた。
神輿の練り歩く道筋には屋台もいくつか並び、それぞれに日焼けした子供たちが小遣いを片手に群がった。しかし、子供たちを始め港町住民の最大の目当ては宵宮の土曜日に浜辺で打ち上げられる花火だった。
日が落ちると見物人たちは浴衣に着替え、夕涼みを兼ねて浜辺に座り、生暖かい風に吹かれながら夜空に打ち上げられる花火を待った。毎年これが何よりの楽しみだった。余所の町に出て行った者たちもこの花火を見るために増えた家族を伴って町に帰って来た。
片田舎の港町が一年中で一番活気に溢れるときだった。
しかし、いくら町民たちが待ち望む楽しみでも花火はただでは上がらない。そのため夏祭りというよりもこの花火のために地域振興を御題目として毎年一月半ほど前から商工会の職員と町内から集ったボランティアで組織される夏祭り実行委員会が立ち上がった。漁火のママである美紀も亡くなった母智子の跡を継いで実行委員会にボランティアのメンバーとして毎年参加していた。
毎年ほとんど変わらないメンバーなのにそれほど集まって何を詰めることがあるのかと思われるほどに幾度となく会合が持たれた。議題は祭りの段取りを決めるというより花火を打ち上げる資金集めの算段だった。初会合では商工会の経営指導員が昨年の実績を元にして作った寄付金先の地区別表により担当する地区が割り振られ、次回の会合からは集まる度にその成果を報告し合うことになっているのだ。
「本年も夏祭りの季節が遣って参りました。ボランティアの皆様方には一方ならぬお世話をお掛け致しますが、当地域の振興を図るため云々」で始まる商工会からの呼び出し通知を受け取り、美紀は今年も会合が開かれる商工会館の二階の会議室に出掛けた。