初めてのお看取り
搬送も大変と思われた病状にもかかわらず、中島さんは無事に地方からの搬送に耐えて入居しました。病状はいただいた情報以上に悪く思えました。脳卒中による意識障害のため、栄養補給の管が鼻から留置されていました。手足はこわばり、曲がった状態で、左の肺音は聞こえず、携帯エコー検査では胸一杯の胸水が見えました。右の肺だけでかろうじて呼吸をしている状態です。携帯のエコーでわかるほどの多発骨転移、肝転移もありました。
これはとても3か月持たない。ご家族に見通しを説明し、緩和療法を中心に大きく方針転換をしました。栄養補給をしてきた経鼻管を抜き、最小量の点滴に変更しました。正直、一生懸命に尽くされて来た前医から、お引き継ぎした直後に方針を大転換するのは非常に不安でした。何しろ、私たちはまだ、ご家族との信頼関係を築くにはあまりに時間が短すぎましたから。それでも毎日看病していたご家族には、すでに察しがついていたのか、お任せくださいました。お鼻の管を抜いた時、奥さんがしみじみ言いました。
「お父さん、管が抜けてよかったねぇ、5か月、よく頑張ったね」
中島さんの表情は心なしか、スッキリ、柔和になった感じがしました。
脳神経症状と呼吸不全は転げ落ちるように、日々悪化していきました。その間、毎日奥様と娘さんはお父さんと一緒に過ごされました。サービス付き高齢者住宅の居室は入居者さんの自室ですから、ご家族、ご友人のたまの寝泊まりも自由なわけです。病院での付き添いよりもずっと快適で落ち着ける環境です。
中島さんは鎮痛の貼り薬が効いているのか、あるいは、意識障害のためかわかりませんが、苦しい表情を浮かべることはありませんでした。ただ、日々、目の動きはうつろい、脳神経症状の悪化がうかがわれました。訪室のたびに悪化する全身の変化をお伝えするのは忍びなかったのですが、ご家族は受け止められました。病院やホスピスへの転院を望まれることなく、おまかせくださり、入居後わずか20日でお亡くなりになりました。
私は正直、自分の無力感でいっぱいでした。急性期病院で働いてきた私にとって、何の原病治療もできずに、お看取りをするなんて、医師としての役目を何も果たせていない感じがしました。しかし、どんな治療を受けようと、人はいつか亡くなります。そこに寄り添うのも医師としての仕事なのだろうとも思います。その終末期に求められるのは医師としての治療よりも、看護であり、介護なのだろうとも思います。
私はお見送りの折に、ご家族に正直に尋ねました。
「私は緩和医療はしたけれど、ほとんどお役に立てませんで。こんなことでよかったのでしょうか?」
娘さんとお母さんはこう答えてくれました。
「病院では他の患者さんや多くの人々もおり、家族水いらずで過ごすことはできませんでした。わずかな日々でしたが、最後の時をずっと安心して家族で過ごせたことは本当によかったです。ありがとうございました」