スタンカップ」大当たりで、個性派社長はつい有頂天

一九七六年から八五年は、各味噌メーカーはカップみそ汁の先行きを見通せず開発が遅れており、先行した我が社の独壇場であった。いよいよ当社も工場を作るべき時期に至ったが、誰もそのノウハウを教えてくれない。

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そもそもフリーズドライ製法自体があまり知られていなかったから、おそらくノウハウを教えられる人などいなかったのだ。私は食品機械の展示会や、ナイロンアルミ包装資材の会社、あるいはフリーズドライ製法で味噌を粉末にする工場に足を運び、自らノウハウを得て半年で戸越の倉庫内に工場を稼働することができた。

一九七八年頃のことである。何から何まで独学であったが自社工場が完成したのである。これもまた余談だが、あまりにも夢中になり、他社のみそ汁のサンプルをたくさん飲んだために胃潰瘍の発症を医者に知らされて驚いたこともあった。今でも検査をすると、その跡が残っているらしい。

1978年7月、スタンカップ新製品発表会を開催(品川のパシフィックホテル東京にて)。

話は前後するが、わらべやブランド以外の取引先に当社が自社商品を販売するにはブランド名が必要になる。私はカップみそ汁だけでなく他の加工食品にも使えるブランド名を考えていた。

しかし、カップみそ汁を連想させるブランド名でないと消費者に知れわたらないのではないかと考え、ひねり出した名称が後に登録商標になった「スタンカップ」だ。

由来は何かとよく聞かれるので、「東西どこでもすぐに食べられることを、英語にすればウエスタン、イースタン、スタンバイ、インスタントになる。みんな〝スタン〞が付くので『スタン、スタン、スタンカップ』になった」と説明している。

実はこれには、学生時代に付き合っていた青山学院大学の女子学生から「〝パピプペポ〞と〝ン〞の発音は広告用語で話しやすく聴きやすいの」と聞かされていたことを思い出し〝ン〞と〝プ〞を使用したという裏話がある。

今頃、彼女はどうしているだろうか。若き日の淡いエピソードを思い出し苦笑してしまった。さて、戸越倉庫は工場に占められていることもあり手狭になったので、一九七七年、大田区千鳥町に倉庫を移し、賃借した。結果、戸越は専用工場となった。

この年は当社の記念すべき年で、当時、人気があったニッポン放送のラジオ番組「いまに哲夫の歌謡パレードニッポン」でラジオCMを平日の昼過ぎに流した。ラジオは車を運転している人や商店主、主婦など結構幅広い層が聴いており、効果的で十二年も続けた。

最初は「スタンカップ」を連呼したが、効果がないことがわかり、お寿司、おにぎり、お弁当の店に絞り込んで呼びかけた。