生命の崇高と人体構造の神秘を描き切る傑作。
ほぼ100日、約3カ月におよぶ正統解剖学実習。死者と向き合う日々のなかで、医学生たちの人生も揺れ動いていく。目の前に横たわる遺体(ライヘ)は何を語るのか。過去の、そして未来の死者たちへ捧ぐ、医療小説をお届けします。
第2章 乳房が簡単にずれて、はずれる。筋肉や骨を切断する
翌日は、首にもどってさらに深層の解剖に移るために、まず胸鎖乳突筋を切断する。
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指2本分くらいの横幅で小指の厚さくらいの筋肉を鋏で切断するのだ。みんなで相談して僕と高尾が左右それぞれ行った。
裏側に有る神経や血管を傷つけないように気をつけて、鋏を入れて力を込める。筋が厚いのでけっこう硬い感触だ。横断するのに3回程かかった。板のような筋肉が横に切断されると、断端が垂れ下がった。それをめくりかえすと、深層の部分が現れた。まず、太い血管が2本眼に飛び込んで来た。大小があるが、小さい方でも最初の時に見た外頸静脈や前頸静脈の比ではない。内頸静脈と総頸動脈だ。ただ、最初の状態では、電気製品のコードのように外側から2本まとめて、半透明な白っぽい膜に包まれている。繊維の絡まったような和紙を思わせる丈夫な膜で、ピンセットで左右からほぐすように強く引っ張らないと除去できなかった。
やがて少し顔をのぞかせてくると、血液の流れていない遺体では、動脈は硬く弾力が有るが、静脈はしおれてつぶれているのが分かった。また、動脈は不透明だったが、静脈は中に血液の残存、或いは塊の有るのが透けて見えた。時代劇などで自害する場面で切っているのがこれらの血管なのだな、と思った。
2本並んだ太いネギのような血管の間に、糸のように細い迷走神経が挟まれて平行に走っているという事なので、探した。2本を左右に分けると、迷走神経は容易に見つかった。しかし、テキストをよく読むと、この迷走神経は総頸動脈と共にさらにもう一重の鞘にくるまれている、とある。すなわち、総頸動脈の方に伴走するらしい。
さらに、解説は続く。