2015年4月:はじめまして熊坂です。

 
私は福島市の笹木野というところで生まれ育った。子どもの頃は唱歌「ふるさと」の歌詞そのままに野山を駆け巡り小川で魚とりばかりしていた。家の周りには、なし畑が広がり、二人の娘の名前に「梨」の字を付けたほど「くだもの王国」福島には誇りを持っている。
 

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東日本大震災から2年が過ぎた頃、農家をしている友人が東京にいる娘に果物を送ったら「福島と書いてない箱で送って」と言われたと肩を落としていた。とても悲しかった。
 
私は、45歳で岩手県宮古市長に就任し二度の合併を経て3期12年務めて2009年に退任した。退任後は、大学で教鞭を執りながら医師として仕事をしていた。
 
震災の日の3月11日午後2時過ぎにも、理事長を務める宮古市内の医院で診察をしていた。医院は間一髪で浸水を免れた。停電、断水、通信不能、職員も被災という非常に困難な状況の中ではあったが、医療需要が一段落するまで院長と共に毎日診療を継続し、気付いたら1カ月で延べ約3000人を診察していた。私の医院にカルテのあった方も130人が犠牲となっていた。
 
 
26歳で医師となり多くの死に立ち会ってきたが、今回の震災ほど「人生の無常」を感じたことは無かった。誰がこの日、自分の命がなくなると思っていただろうか。また誰がこの日を境に過酷な人生になると思っていただろうか。明日のことは誰にもわからない。だから今できることに全力を尽くしたいと思うのだ。