「家業」から「企業」へ、二十七歳のイノベーション発動。
当社も大手スーパーに納入できず、中小小売店に卸売りしていたので徐々に売上げが減っていった。中小問屋だけではなく、中小小売店も力のないところはスーパーに押されて消えていったのである。
その頃、私は二十七歳で若く、会社を「家業」から「企業」へと脱皮させてエクセレントカンパニーにしたいと夢を見ていた。何とかならないかと焦りを感じながら思案を重ね、たどり着いた答えは「食品の展示会」だった。これが、社長・上野俊夫にとって最初のイノベーションであった。
味噌・醬油だけではなく瓶詰、缶詰など、いろいろな加工食品を会場に陳列して買ってもらう即売方式で、当時はまだどこもやっていない画期的な催事であった。会場は当社の倉庫からスタートし、最後には五反田のTOCビルで大々的に行った。
各メーカーも自社の商品が売りたくて会場で懸命に説明していた。大盛況だったのは言うまでもない。しかし、各社が同様の展示会を次々と開催するようになり、やがて飽きられていった。
第二のイノベーションはPB開発、問屋からメーカーへの転身。
この頃、味噌・醬油以外の売上げが増加し、全体の売上げも伸びたが、やがて頭打ちになった。理由は、商品を大量に扱う大手の食品問屋や現金問屋の卸価格が従来の中小問屋より安く、当然ながら、小売店は従来の取引先と関係なく安いところから買うようになったことである。
そして、商流が大手食品問屋と大手スーパーに移りつつあった。戦前から戦後にかけての三十年間は物不足のために需要が旺盛で、会社が繁盛して良い時代を過ごしてきた六十代前後の社長たちは、昔の栄華を捨て切れず時代の変化に対応できないまま窮地に追い込まれていった。実際、バブル経済が崩壊した一九九六年頃には味噌問屋の数は半分以下に減り、残りは「企業」から「家業」へ縮小していた。
中小問屋である当社も右に同じで追い込まれていったが、ここで第二のイノベーションを思いつく。自社のオリジナル商品、いわゆるプライベートブランド商品(以下、PB商品)の開発である。
他社商品を販売すると価格競争になるが、自社の商品なら価格決定権はこちらにあり、利益が確保できる利点がある。早速、味噌、ウーロン茶、インスタントスープなど大手メーカーが弱い商品を狙って開発した。
このやり方は利益が確保でき、大いに儲かった。業績も飛躍した。今でこそ食品業界はPB商品であふれているが、その当時は珍しかったのである。父が残した借金一億円も三十歳になる前に返済することができた。