【前回の記事を読む】アイスクリームが売れるほど、溺れて亡くなる人も増える? 一見“関係ありそう”なデータに惑わされないために必要な視点とは
第Ⅰ章 序論
因果関係の重要性
しかしどのような説を取ろうとどのように考えようと、直ちに生活に影響を及ぼすことはない。すべてのことを疑う懐疑論者でも普通に生活している。
ところが因果関係ではないものを因果関係と思って行動したときには生活に影響が出る。相関と因果の違いを知らないと対策を誤る。
体重と身長の相関関係から、「体重を増やせば身長が伸びる」という因果関係があると誤解した人は、たくさん食べて体重を増やそうとすることになる。
体重と身長なら誤りはすぐわかるというだろうが、「ある食品を食べている人は健康である」という話を聞くとその食品を食べようとする人は多い。
テレビの健康番組で納豆を食べている人は長寿と放送されるとスーパーの商品棚から納豆がなくなる。ウォーキングやガーデニングをしている人は認知症になりにくいと言われて始める人もいる。
因果関係は仮説と承知の上で自ら実験して試すというならまだしも、相関と因果の違いを理解していないがための勘違いはうまくない。
週刊誌の記事には、その勘違いを助長するようなタイトルがあふれている。売らんがためにわかっていて、相関と因果、推論と証明を混同させているとしたら何をかいわんやである。
今は情報の質より人々の注目が経済的価値を生むアテンション・エコノミーの時代だという。ネット記事に見られる、「たった15分でも寝不足は“脳”が縮む」のような極端なタイトルはPV稼ぎ[注1]以外の何物でもなかろう。
因果関係の考え方
そもそも因果関係とはどういうものなのか。さまざまな考え方があるが、「因果関係は習慣に基づく信念に過ぎない」というヒュームの説[注2]は有名である。
我々は原因と結果とみなされる二つの現象が起こること(恒常的随伴)を経験するだけで、因果関係(必然的結合)を経験することはできない。因果関係は普遍妥当な法則ではなく主観的蓋然的な観念でしかないという。
ヒュームのような経験論からすれば、知識が経験から生ずるもの(後験的、後天的)である限り客観的必然的な知識は存在しないことになる。
因果関係も経験による知識なら各人の主観によって異なり、万人が認める共通認識にならない。因果関係は科学が追究する基本的な知識だが、それが単なる習慣で客観的な真理ではないとなると、科学の客観性、信頼性が揺らぐことになる。
これに対し、ヒュームによって独断の眠りから醒まされたというカントは、客観的必然的な知識の根拠を経験から生ずるといわれない先験的、先天的なものに求めた。
例えば物体の知識から色や硬さ重さのような経験から得られる知識は取り除けても、物体が占めている空間を取り除くことはできない。
すなわち空間の存在は先験的、先天的な知識である。時間も同様で、空間と時間は万人に共通する基本的な思考の形式である。
カントは、知識の内容は後験的だが、各人の主観に共通する先験的な形式でその内容をまとめれば共通認識を得ることができると説いた。内容に形式が加わることで普遍妥当な知識が成立する。
これが、「我々の認識(主観)が対象(客観)に従うのでなく、逆に、対象(客観)が我々の認識(主観)に従うことによって、主観(我々の認識)と客観(対象)の一致は可能になる」という、いわゆるカントのコペルニクス的転回である。
この考え方は因果関係についても同じと言えよう。続いて起こる二つの現象(客観)を先験的な形式である因果律の法則(主観)で構成することで、先のものが原因で後のものが結果であるという因果関係が、客観的必然的な知識(主客の一致)になる。