まえがき

この度は、わたしの拙く拗(こじ)れた雑詠群を手にしていただき、誠にありがとうございます。

川名滓と申します。

お読みいただくと瞭然ですが、わたしの心の思春期はかなり遅く、十代の終わり頃に一気に訪れました。

醜形恐怖と失恋、進学ストレスがきっかけでした。散らかったまま張り詰めがちだった心も、大学生活で得た一人暮らしの自由時間のなかで、ようやくノートに吐き出す(書く)という術(癒し)に行き着きました。

この時期、何となく本能について、苦しいけれども意識的な受けとめを続けることが、人として生きていくには最低限必要なのだと感じていました。

同じように社会の種々の問題も、先んじてそれら問題があるからこそ、理性的な取り決め等を育む社会が必要となり、方向性となる(社会も動的である)のだと考え至りました。

わたしは当時、この社会(外の世界)というものが、前述のように「そもそも問題ありきだったんだ」と気付き、外の世界が少し軽くなったのを覚えています。

わたしたちは初めから、内でも外でも、欠落を、醜さを抱えながら進んでいたのです。

その後、わたしは約二十年間、何も書かずに過ごしました。

しかしどこかで、書いていた自分、吐き出せていた自分を、いつもぼんやりと誇りに、支えに思っていました。

ある時、自分の子どもの目すら真っ直ぐ見られない自分がいることに愕然としました。

わたしが、正直なわたしを生きていなかったからです。わたしは仕事を変え、また書き始めました。

心惹かれたその時々の心模様を正確に、より正確に言葉でなぞり得ることはこの上ない喜びです。

なぞり得た先に見えてくる真相はなお然りです。その反面、独り善がりと感じられる部分も多々あるかと思われます。

わたしは、言語表現において、意味(シニフィエ)と同等に音のイメージ(シニフィアン)や音の流れ(音楽性)、文字列の視覚的な印象、飾りの少ない心の実態を重視しています。

そのため型を外れたり、分かりにくい言い回し、読みにくい記号の使い方などがあるかもしれません。

どうか、そのような勝手なわたしの判断も、以上の理由にて大目に見ていただけるとありがたいです。