神奈川県藤沢市渡内に二伝寺(にでんじ)という浄土宗のお寺がある。このお寺の本堂の左を上がっていくと桓武平氏の系図を記した立派な石碑がある。
更にその左に続く段を登っていくと村岡良文とその子忠光と忠通の3人を祀った3つの塚が飛び飛びではあるが、同じ敷地に仲良く立っている。
忠光と忠通を同一人物とする説もあるようだが、この塚を見る限りふたりは別々に存在したはずで、この3人が三浦氏繁栄の礎を築いたものと思われる。
写真を拡大 系図一―① 桓武天皇と坂東八平氏の関係図
2.鎌倉権五郎景正という人物
鎌倉権五郎景正は、忠通が三浦に居を移すにあたって村岡に残した二男景成の子で、平良文の曾孫にあたる。そして、景正は16歳で「後三年の役」に参戦している。
「後三年の役」は1083年(永保3年)、奥州清原氏の内紛に陸奥守の源義家が介入することによって始まった。
この争乱は、当主であった真衡(さねひら)の所領奥六郡を、腹違いの兄弟である清原家衡(いえひら)と清原清衡(きよひら)との間で折半することで一旦は収まったが、清原家本流の家衡が母の連れ子で安倍氏の血を引く清衡との平等を不服として清衡の妻子を殺害したことで再燃する。(47ページ 系図二―④参照)
写真を拡大 系図二―④ 安倍・清原・奥州藤原氏系図
清衡を支援して家衡を討つことを決意した源義家は1086年(応徳3年)、家衡を出羽国沼柵に攻めたが大いに苦戦。
翌1087年(寛治元年)、実弟で武芸の誉れ高い新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)が加勢し、金沢柵(今の秋田県横手市金沢)にて戦うも戦況に変化は見られなかった。