【前回の記事を読む】【桓武天皇】全員は養えない…70歳までに26人の妻をもち、35人の子どもを授かったものの……。

その一 鎌倉権五郎景正 ~御霊神社~
今も地元の人々から敬愛される、勇猛で心優しき鎌倉のレジェンド

1.桓武平氏と三浦氏

平高望には嫡男国香(くにか)の他にも多くの息子がいたが、五男・平良文(よしふみ)は武蔵介として任地に赴いた。そしてこの平良文を祖として坂東八平氏が生まれていく。

これも、諸説あるようだが、坂東八平氏とは、

①中村氏:神奈川県足柄上郡中井町を本拠地とし、庶流に土肥、土屋、二宮等。

②秩父氏:埼玉県秩父市を本拠地とし、庶流に小山田、葛西、河越、豊島、畠山等。

③千葉氏:千葉県千葉市を本拠地とする。

④上総氏:千葉県茂原市南部と長生郡南部を本拠地とする。

⑤三浦氏:神奈川県三浦市を本拠地とする。

⑥大庭氏:神奈川県藤沢市を本拠地とする。

⑦梶原氏:神奈川県鎌倉市を本拠地とする。

⑧長尾氏:神奈川県横浜市戸塚区を本拠地とする。

とされている。

源頼朝が源氏を再興するに際して、これら多くの坂東平氏たちが頼朝を支え、鎌倉幕府が成立する。

とかく源氏と平氏の対立構造で中世史を理解しがちな私たちにとってこのことはとても新鮮に感じる。

東国を代表する剛の者として知られた平良文(別名、村岡良文)は平将門の叔父にあたる。

「平将門の乱」では鎮圧に功績があったが、その三男忠光(ただみつ)は将門に与(くみ)したために、乱の収束後には常陸国信太郡(しだぐん)に配流となる。しかし、後に赦免されて安房国と相模国三浦郡を与えられ三浦介の祖となっている。

三浦氏の誕生についても諸説あるようだが、鈴木かほる氏が『相模三浦一族とその周辺史』で述べておられるように、良文の子であるこの忠光が三浦郡に住み三浦の平大夫と称するも、子の代で途絶えたため、忠光の弟忠通(ただみち)が村岡の地に二男景成(かげなり)を置いて鎌倉姓を名乗らせ、自分は三浦に居を移してあとを継ぎ、長男為通(ためみち)に三浦姓を名乗らせたという説が私には一番しっくりくる。