高倉の乗った便はアメリカのP航空〇〇一便という世界一周便であった。

「P航空は、からのジャンボを毎日世界一周させている」という有名な話があったが、その通り機内はガラガラ。

羽田から、香港、バンコック、ボンベイ、カラチを経由したが、どの空港からも乗ってくる客はまばらであった。

機中でゆっくり眠れて、すっきりとした気分で新天地へおりたった高倉を、ベイルート国際空港で迎えたのは初春の青い空、そしてその空の色を映し出している蒼い地中海であった。

アラブ人たちでごったがえしている空港ロビーの中に、七洋商事の先輩駐在員である大河原と中川の顔が見えてほっとする。

七洋商事はこのベイルートに中東事務所を構え、大河原と中川は物資担当として中東全域を受け持っている。

空港から社有車でダウンタウンへ向かう途中右手にパレスチナ人の難民部落が見えた。

大河原がそれを指差しながら説明した。

「現在のイスラエル及びヨルダン川西側とガザ地区はもともとパレスチナ領土だった。しかし、その約半分をユダヤ人に渡し、のこり半分をパレスチナ領土とする、いわゆる『パレスチナ分割宣言』が一九四七年十一月の国連総会で決議された。それでユダヤ人は一旦は決められた土地に入ったものの、その後パレスチナ側領土にも侵攻して行ったんだ。そして、とうとう一九四八年五月には全土を占領し、イスラエル国を建国してしまった。だからパレスチナ人は領土から押し出され、レバノンをふくむ周辺国へ難民となって移動した。そのパレスチナ難民部落のひとつがここだよ」

「そうなんですか、興味深いですね。イスラエルのやったことはまさに侵略と感じます。中東の火種とはこういうことを言うのですかねえ」
と、高倉は難民部落を見ながら言った。

しかし実際に、そのすぐあとに始まったレバノン内戦の要因は全く違ったものであった。

七洋商事ベイルート中東事務所は、中東、北アフリカ地域のビジネスを受けもち、いわば『中東・北アフリカ方面総司令部』とも言うべき位置づけのオフイスである。

この年の約一年前、一九七三年末から一九七四年初に起きた第一次オイルショックは、原油価格をバーレル当り二米ドルから一気に十二米ドルにはね上げた。

それで一躍中東ブームが起き、担当地域の業務は繁忙をきわめることになった。

物資部が取り扱っている商品もしかりである。

特に七洋商事が中東、北アフリカの大半の国の商権を持つニホンタイヤの売上げは急激に伸びていった。

ベイルート港には、大型貨物船が次々と接岸する。降ろされた荷物は、一旦関税のかからないフリーゾーンに続々と運び込まれる。

その中にはタイヤを装着していない、『足なしメルセデス』と呼ばれるベンツの大型トラックが西ドイツから大量に到着していた。