【前回の記事を読む】「プロの練習よりもきつかった」千葉の英雄、斎藤一之監督と銚子商野球部
1.歴史的大敗からの「怪物退治」へ
このような出来事が起こるきっかけとなったのは、その年の春のセンバツ大会1回戦だった。相手は報徳学園。序盤から銚子商は点数を取られ、その試合はまさかの敗退で、しかもスコアは16-0。
それまで、全国でも1回戦負けがほとんどない、全国上位常連校がまさかの大差での敗戦。この敗戦は、銚子市にある種の「混乱」をもたらした。
当時のある選手は、「やはり、選手に対する風当たりはかなり強かった。」という。また、古くから銚子商野球部を見続けてきたある市民は「銚子商が甲子園に出ると、市民に対して寄付を募る。この寄付は一口1万円。銚子市民は喜んでこれに寄付し、その昭和48年の春センバツまで、毎回全国上位に食い込み、少なくとも初戦負けはほとんどなかった。だが、あの春のセンバツでは、ただの1回戦負けではない。16-0と、当時の甲子園での記録だった記憶があるが、それほどインパクトのある敗戦だった」と話す。
当時、この寄付に関して、かなり協力的だったという話が多かったが、一方で快く思わない、複雑な心境で、この寄付を迎える銚子市民も存在したそうだ。
銚子市内では、銚子商野球部員とわかると「寄付を返せ!」と声を上げる市民もいて、さらに銚子商に通う一般生徒の親が、自分の子供を使い野球部員に文句を言うということも起きていたという。
ただ、そんな中でも、名将斎藤監督には誰も批判を言えず、その批判の対象の多くは、選手に向けられていた。実は、この市民からの罵声というのは、この時に始まったものではない。