その斎藤一之監督が築いてきた全盛期。銚子商は、県内でも全国でも名勝負を繰り広げてきた。中でも千葉県内ならば、かつて「ナンバーワン人気カード」と称された、銚子商VS成東高校が挙げられる。

松戸健監督(後の千葉県高野連会長)が率いる成東高校は、斎藤監督が亡くなる平成元年に甲子園初出場を果たすが、それまでも県内では強豪だった。後にプロにコマを進める投手、鵜沢達雄(大洋︲西武)や、鈴木孝政(中日)など、剛腕投手を擁し銚子商に挑んだが、結果として松戸監督時代は甲子園出場を銚子商と斎藤監督によって阻まれ続けてきた。そして、この2校は決まって準決勝や決勝で当たり、ほぼ必ずと言っていいほど1点差ゲームを展開してきた。このことから「悲運の成東」と呼ばれ、長らく甲子園という文字はかすれたままだった。

そして、全国の舞台で銚子商を語る上で、甲子園での名勝負もいくつかあるが、忘れてはならない試合が2つある。

それは千葉県勢初の決勝進出を果たした昭和40年夏の甲子園決勝。相手は、後にアマチュア野球ではその名を知らない者はいないとされた、現読売ジャイアンツ監督、原辰徳氏の父である原貢監督率いる三池工業。この当時、銚子商には後に東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)で最多勝投手となる木樽正明氏がエースとして存在したが、結果2/0で敗れ全国準優勝。しかし、準決勝で後に南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)に入団する牧憲二郎を擁する強豪、高鍋高校をサヨナラで下したなど、全国に「銚子商」の名を轟かすきっかけとなった夏だった。

そして、最も忘れてはならないのは、現在でも「甲子園最強の投手」と称されている投手を、甲子園で下している事実である。昭和48年夏。「怪物」と呼ばれ、後にプロの世界で、引退までたった9年間で135勝を挙げる、作新学院、江川卓である。当時の地元の熱狂ぶりは、娯楽の少なかったこの町に英気をもたらし、地元住民は、一丸となって地元の期待の星を応援した。その最高潮となったのは、昭和49年の初優勝と、その前年の昭和48年に「怪物」に甲子園という大舞台で土を付けた瞬間だった。その時の銚子市、そして千葉県が大きな盛り上がりを見せたのは言うまでもない。

しかし、実はこの昭和48年の夏の前にある騒動があった。それは、昭和48年の春のセンバツでの初戦の出来事だった。昭和48年。3月28日。センバツから帰ってきた銚子商ナインを迎えたのは「寄付を返せ!」「何しに甲子園に行ったんだ!」という罵声だった。

この日の前日、銚子商野球部の面々は、夜に大阪を後にし、バスで故郷へ戻った。銚子市に着いたのは朝方だが、銚子商の面々が乗ったバスとわかると市内では石を投げつける者がいた。元々漁師町という事もあり、銚子市の人々は朝が早い。そのため普通なら人目につかない時間に着いたはずだが、人々の目につきやすい時間帯になってしまったと、当時を知る選手は語る。