名将は、すぐさまその学校に連絡し、練習試合を申し込んだ。日にちは4月29日の天皇誕生日。名将の目には闘志がわいており、その日からすべてにおいて「対怪物」を意識した。

故郷に到着した名将は、次の日の練習から「怪物」に標準を合わせた。バッティング、バント練習の際には、バッティングピッチャーをマウンドから5m前にし、とにかく「速球」に慣れさせた。この年、銚子商は「斎藤部長」から、改めて「斎藤監督」へ復帰した年だった。

だが、監督復帰最初の甲子園大会で、インパクトのある結果となった。銚子商グランドの土手には、いつもの「土手クラブ」の面々が、「大敗」後の銚子商野球部の練習を見ていた。熱狂的なファンクラブである土手クラブは普段からグランドに来ている面々の数も多かったが、やはり先のセンバツでの結果を鑑みると、土手クラブの面々の視線を、斎藤監督も選手たちも意識せずにはいられなかった。

斎藤監督の練習は、野手は「守備練習」と「走塁、走る」「バント」に重きを置いており、投手は別メニューで「投げ込み」と「走り込み」に重きを置いていた。バッティング練習はあまり時間を割かなかったが、ノックが延々と続き、盗塁練習や連係プレーなど「試合」を意識した練習になっていた。

しかし、敗戦後はいつも以上に試合を想定したものとなっていた。そう、それは甲子園という舞台で、もう一度「怪物」に挑戦をするためだった。