【前回の記事を読む】原爆が投下されたとき、山路商の母は彼の「自画像」を守った
未解明の謎の答えを求めて
尾道へ
二〇一五年の晩秋、ドバイとスペインへの旅行から帰った私達は尾道に出かけた。十一月六日から八日の二泊三日の旅だった。かなり前から楽しみにしていたプランだったのだが、やっと実現した旅だった。テーマは「藤江の山路一族」の子孫に繋がる人との面談であった。
同年六月に鞆の浦に出かけた際に、鞆の浦小学校の島校長とお会いした。私達の話、特に加藤清正と山路将正国の賤ヶ岳の合戦での一騎打ちの話に至った際、島校長から、学校のすぐ近くにある「法宣寺」を訪問してはどうかとアドバイスを頂いた。
法宣寺は日蓮宗の寺であるが、加藤清正の珍しい像が安置されていることがその理由だった。ちなみに清正の正室は初代福山藩主水野勝成の妹「かな」であるが、それが縁でここに清正公堂が置かれていた。
訪問したときの詳細は前著『先祖の足跡を辿れ』に詳述したのでここでは省くが、法宣寺でお会いした堤さんという若い僧のご紹介で、山路宜嗣氏という一族に繋がる人物を知ることになったのである。その宜嗣さんのお話から、岡本山路家の分家「備前屋山路家」の子孫の女性が尾道に嫁いでおられることが分かったのだ。そのことが尾道に出かけることになった背景である。
十一月六日の夕刻、備前屋山路家の子孫の女性(和子さん)とそのご主人の島居 勝氏のお二人と、ロマンコーヒー店でお会いすることになっていた。「ロマンコーヒー」は尾道駅に繋がっている本通りというアーケード街にあった。
夕刻なので人通りは少なかったが、雰囲気のよい喫茶店であった。中に入ろうとしていたところ、男女のお二人がこちらに向かってくるのに気づいた。そのお二人がこれからお会いする島居夫妻であった。店の中は客が少ない時間帯だったので、「どこでも自由に座って下さい」と言われて、奥のほうにあった大きなテーブル席に着くことにした。
名刺交換をし、コーヒーの注文をして、早速話を始めた。面談をお願いしたのは私達のほうだったので、一通りこれまで調べて分かったこと、そしてお二人にお尋ねしたいことなどを説明した。
話題の中で私達にとって重要なテーマは、二〇一四年に鞆の浦の澤村船具店で頂いた「引札」の作成に関わった「みつきや叓こと山路清助」のことについてであった。山路清助は引札の作成にあたり尾道の印刷版木師「片山菊次郎」との交渉役を務めたが、本職は鞆の浦を拠点に旅客相手の船宿経営をしていた人物である。もしや、山路久助に繋がる何らかの情報にありつけるのではないかと期待したが、いずれも手がかりとなる情報はなかった。