渡る世間は仏ばかり《三十五歳〜三十六歳》

八月オープンの一号店から始まったエンゼルスの出店は矢継ぎ早に続き、年が明けた頃には十店舗を超えた。

一カ月遅れで九月から製造を開始したハンバーガー類の売上は凄まじく、チーズバーガーやフィッシュバーガーなどを合わせた売上は平常でも一日一店舗で二百個を超え、一週間のオープニング・セールでは一店舗で千個を超えるような発注があった。発注はあったが、その全てが売れる訳ではなく、開店一週間に限っては製造元が返品を受ける契約になっており、ハンバーガーやおにぎりなどのセール対象品の返品数は半端ではなかった。

山のような返品を見かねて加藤MDに実状を訴えると、穏やかに諭された。

「お店との契約は、十五年間続くのだよ。その間、お店が発注して売れ残った商品は全て、お店が負担するのだから、十五年分の一週間だと思って辛抱して欲しい」

そう説得されると頷く他なかったが、「十店舗以上も同じような返品が続けば、発注の仕方をもう少し工夫しても良いのではないですか。追加発注を受け付けますから、無駄なロスを無くすよう再考して欲しい」そう懇願し続け、やっと受け入れられた。

万鶴とひろしま食品の掛け持ち専務を続けながら、恭平は折を見てはエンゼルスの店頭に並べるための商品を開発していた。開発と言っても安直なもので、包材業者が持参した新しい容器に万鶴の食材を適当に盛付けただけの好い加減さだった。

それでも案外な好評を得てヒットした一つは、バスケットを模した新規の容器に鮭、昆布、梅の三角むすびを三個、そしてパンの耳を五ミリ角のサイコロ状に切り鶏肉に塗して揚げた唐揚げが三個入った、「むすびバスケット」だった。同じ内容を従来の弁当箱に入れたら、平凡極まりない商品だが、斬新な容器に入れただけで見た目が一変し、「むすびバスケ」の愛称で長年親しまれ、売れ続けた。

万鶴での業務を夕方に終えてから出社するひろしま食品は、午前零時までに納品する商品の製造に追われていた。再び白衣に着替えた恭平は、盛付け要員の一人となった。

レーンの上には、ハンバーガーのバーンズが流れ、バーンズにバターを塗り、焼かれたビーフ・パティを載せ、パティにソースを掛け、千切ったレタスを載せ、一枚一枚はがしたチーズを載せ、バーンズで蓋をする。出来上がったハンバーガーを袋に入れ、袋を折り返しテープで留め、テープの上にシールを貼り、番重と呼ばれるコンテナに入れる。

この一連の作業の何処かに入り、毎晩作業に没頭して時間を忘れた。忙しさに忘れていたのは時間だけでなく、父親に任せっきりの資金繰りだった。