振り返った先生は、えっという顔で私を見た。どうした。そう聞かれても答えようがない。ただ、家で母親にねちねちと説教されるのが耐えられなかっただけなのか、自分で自分の行動が理解できない。
「私にも私の事情があって。せやから……、えっと」
「ええよ。他人の僕で良かったら、聞くよ」
ああ、そう言ったっけ。すみません。ここは、らしくなく素直に謝るしかない。
「僕も、神崎さんと話がしたいと思ってたから。でも、噓をつくのは良うないよ。僕は給料を貰ってる身だからいいけど、親御さんには心配かけたらあかんよ」
はい。心の中で舌を出しながら、しおらしく頭を下げた。鐘の音が聞こえてくる。十二時になったようだ。
「先生、怒ってない? 親がいきなり塾に電話して、びっくりしたやろ」
「まあ、びっくりはしたけどな。これまでの神崎さんを見ててなんていうか、心が定点にないような。ふわっとどっかに飛んでいってるような、そんな気がしてたからな」
「定点やなんて、やっぱり先生は先生なんやな。ほんま、意味が分からんわ。私、できが悪いから」
そろそろ肩先が冷えてきた。もう九月も終わろうとしている。
「できが悪いなんて、思うたことないよ。神崎さんは、ちゃんと物事を筋立てて考えられる人やから。いつも、心ここにあらず、て感じはしていたけどな」
「そんなわけ、ないやん。文句なしの落ち零れやって。私は、なんで勉強しなあかんのか分からへん。妹はちゃんと目標を立てて、高校も超難関の進学校にちゃっかり合格したし」
あのコンサートの日以来、映美はそれが使命であるかのように、これまで以上に脇目も振らずに机に向かっていた。そんな妹を見ていると、自分の存在価値がどんどん薄くなっていくように思えた。
「先生は、なんで先生になろうと思ったん」
「うちは母子家庭なんやけどな。母親の苦労を見て育ったから、手っ取り早く稼げる方法を考えたんや。普通の教師は何かと大変やと聞いてたから、塾の講師になった。それって一種の逃げやけどな」
私は親の苦労なんて、一生見ないだろう。だから何に頑張ればいいのか分からない。
「母親が定食屋みたいな店してるから、いっぺん食べにおいで。夜は九時までやから、塾が終わったあとに来られるやろ。納めてある入塾料も安うないんやから、しっかり通わなあかん」
授業料なんて、カップラーメンやカラオケや洋服代に消えるだけだ。それでも一応ふんふんと頷いておいた。約束やで。はいはい。
「送っていくから、もう帰りなさい。取り敢えず塾は休講にしてるから。明日は出ておいでや。約束やで」
ああ、はいはい。家に着いて、帰っていく先生の後ろ姿を鉄門の間から見ていた。とても二十六歳とは思えないような細い肩が、街灯の下を飛ぶカトンボのようにひらひらと見えなくなった。