ドイツ生活

一九九六年九月、家族四人でドイツ南西部のテュービンゲン市に移り住んだ。

テュービンゲン市は人口八万人足らず、そのうち約四分の三が大学関係者という大学町である。テュービンゲン大学は一四七七年、日本で応仁の乱(一四六七年)が勃発した十年後に創立されたという歴史を誇っている。

街は石畳が美しく、人々は穏やかで、少し歩けば森に出られる、素晴らしい環境だった。

この町で、娘は四歳から六歳まで、息子は一歳から三歳までを過ごした。娘は地元の幼稚園から小学校に進み、息子は私立の保育グループで育った。博史は客員教授として、生き生きと研究に勤しんだ。

学生時代にドイツ留学経験がある彼は、ドイツ語を話すのが楽しそうだった。多くの学会に参加し、世界中からやって来た方々と話し合い、学生と向き合い、その成果をドイツ語で論文にまとめていった。

大学からあてがわれた外国人教員専用住宅には、十カ国以上の家族が住んでいて、パーティーもひんぱんに開かれ、家族間の行き来もあり、世界の様々な風習や料理を教えてもらうことができた。

私は、市が経営している語学学校に通った。その学校には、大学を目指している若者のほか、移民や出稼ぎに来ている人、ドイツ人と国際結婚した女性など、様々な人がいた。

最年長は、リタイア後に大学で哲学を学ぶためにがんばっていた六十六歳のアメリカ人男性。ほかにイギリス、イタリア、スペイン、クロアチア、ルーマニア、スウェーデン、ノルウェー、ギリシャ、トルコ、中国、韓国、アメリカ、ブラジル、南アフリカ、ケニア、マダガスカル……二年間、ざっと思い出すだけでもずいぶん多様な人々に出会った。

クラスでは、例えば中国人が「一人っ子政策の必要性」を熱弁すると、アフリカ人の女性が「一夫多妻制なので、兄弟姉妹は二十人を超えている。家族が多いのは良いことよ」と意見し、たちまちアメリカ人が「一夫多妻なんて許せない」と反論するという具合で、熱気に包まれていた。

多くの国の人々と一堂に会せて「世界は狭い」と実感し、同時に、それぞれの風習や考え方の違いを知って「世界は広い」と認識する日々だった。

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