発病
退院後リハビリを兼ねて、会社帰りにバス停3、4つ分を歩いて帰ることを、善一さんは自発的に始めていた。
冬になり、寒さが厳しくなってもそのリハビリをやめなかった。健康な人の何倍もの時間をかけてバス停までたどり着いても、目の前に止まっている自宅方面行きのバスにはすぐには乗れなかった。
30分歩いただけで両足が疲れてしまい、気の短い運転手の多いバスの慌ただしいドアの開閉についていけないこと、バスのステップが高すぎて、たとえ手すりの助けを借りたとしても、上る力が衰えているので、転ぶことを恐れて、次のバスまで運が悪いときには30分以上、吹きっさらしのバス停で北風に凍えながら、足の疲れをいやして待たねばならなかった。
通常30分足らずで帰れるはずの道を、1時間以上もかけて、身体を冷え切らせ、疲れ果てて帰ってきていたのだった。
そのうちバスのステップがどうしても上れないで、朝の混んだバスの中で2回ほど転倒してしまうことがあって、みんなに笑われているような気がすると言い、その次の日から、私がおんぼろの自家用車で会社への送り迎えをするようになった。
長女は1歳の誕生日を過ぎて、もうずいぶん手がかからなくなったとはいうものの、夜の遅い我が家では娘も宵っ張りの朝寝坊になっており、善一さんの出勤につきあわせるために、パジャマ姿で寝ている娘にジャンパーをひっかけてやって、助手席のチャイルドシートに座らせる毎日だった。
「未央がかわいそう」
心にしまっておくことができなくて、幾度もつぶやく私を見て、善一さんはなんと思ったことだろう。まだ眠っている子どもを親の都合で無理矢理起こしてしまうことにばかり罪悪感を持っていた。
私はまだ、善一さんの本当の悲しみ苦しみを理解してはいなかったのだと思う。善一さんは、文句ばかり言う私に、小言一つも言わず、いつもすまなそうに、「悪いなあ。未央がかわいそうだなあ」と優しい言葉ばかり言っていた。
そういえば、日曜日には、自宅から車で10分程度で行ける唐八景という小さな山へ歩行訓練をしに行っていた。
唐八景には、地元の人たちが伝統行事としてハタ(凧)揚げをするアスファルトで固められた平坦な広場があり、健康な子どもだったら数分で一周してしまうくらいの狭いその周囲を、善一さんは何十分もかけて歩いていた。
私たち以外には誰もいないときもたまにはあったが、たいていはいろんな人が日曜の午前、その場所に来ていた。ハイキングに来た家族連れ、犬の散歩に来た近所の主婦、そして善一さんと同じ目的で来ている人も。
その人は60歳くらいで、杖をつき、リズミカルな動きではないにしても、黙々と着々とその広場を回っていた。未央を草原で遊ばせながら、私は見るとはなしに、その人と善一さんの動きを比べてしまっていた。
明らかに足が悪く、杖をつきながら歩くその人のほうが、善一さんより健康そうでスイスイと歩いているように見えた。それほど善一さんの足は、傍目にも痛々しいくらいぎこちない動きしかできなくなっていたのだった。