『八汐の海』

「や、重信さん」

乃木坂の方から来てすれ違っていこうとした男が声をかける。

「や、奇遇だ。お前、一人? こんなところで、まだ暇潰しできる身分じゃないだろう?」

「あ、室町さん」

「僕は、初めてのような……」

「僕の方はかねがね……」

「生方くんだ」

二、三歩下がって離れていこうとする淳を引き留めて重信が紹介しようとするときっとなって

「企んだ?」

「怖いなあ。淳、邪推は卑しい。おいで」

離れたところでちょっと頭を下げて、父が近寄って

「どうした?」

「室町の娘。淳」

と重信が向こうに言う。もう可愛くない歳だよ、子供っぽいことは止せ、と父が囁く。

「……じゃあ……失敬します」

「……待てよ……せっかくだ、珈琲一杯……」

躊躇ってから

「水入らずで」

と行ってしまおうとする。

「生方、急ぐことないだろ。水入らずに付き合え。僕らも淳と本当に久しぶりなんだ。人見知りして帰ってしまわれては残念だから」

生方は淳を視ながら迷っていたが

「ご老人に付き合ってあげましょう」

諭すように言うからしぶしぶ頷く。カフェテラスでも淳は無口だ。

「老いも若きもだね、アクセスがいいしな」

街路を見渡して室町が言う。

「どこへ行っても同じだ」

「最近はどこへ行かれましたか」

生方が訪ねる。単なる話の接ぎ穂に。

「ジョージアとアゼルバイジャン。黒海からカスピ海まで。緊張を要した」

「今日は、これの母親の、記念日でね、昔話になったもんだから、淳はウェットになっている」

生方は淳を視ている。伏目に頬は堅く今し方の品定めの話の時とは様変わりだ。

「難しい地域ですね、旅先の病気の心配はしませんか」

「それが今後の問題だ。実感している」

「ところがますます片雲の風に誘われて漂泊の思いやまずなんだ」

「日々旅にして旅を住みかとする」

「古人も多く旅に死せるあり、と」

淳が息を詰める。

「芭蕉みたいに野ざらし覚悟の風流を気取るつもりはないけれど、落ち着けなくてね」

「ま、元気で帰ってきてください」

と生方。途切れる。間があって

「能楽堂で放下僧、観世流がやるので観ようかと思って」

腕時計を視る。