この著作は最初から順を追って読んで頂きたいと思う。

原稿を読み進めながら私は、(おそらく彼女が昔言ったのとは違う意味で)「いったい何だこれは」と思ったけれども、最後まで読んだら「あーなるほど」と合点がいった。

大学でほとんど人付き合いをせず、個人的な話題を口にすることが無く、不機嫌そうな表情をしていることが多かった彼女について、「なるほどそーだったのか」と納得できた。その意味で私には正に「目からウロコ」だった。もちろん彼女がこの著作で意図するものとは全く違うはずだけれども。

これは彼女がかつて書きたいと考えていた分野の著作ではないのだろうが、もし何か一つだけ書くとしたら、彼女の心の奥にずっとわだかまっていたものを解きほぐす内容にならざるを得なかったのだろう。でも、「目からウロコ」はたいてい軽いノリで使われているというのに、題名はこれでいいのかしらと私は思った。

しかし彼女はさしあたってこの題しか思い付かなかったらしい。まあ「目からウロコ」のそもそもの由来、聖パウロの故事を思えば、なるほどこれでいいのかもしれない。尤も彼女によれば、聖パウロは「ちょっと残念」なのだそうだ。そう言われても私にはぴんと来ないけれど。

そしてまた、キリスト教に馴染みの無い人には読み辛いのでは? と彼女に尋ねたら、かえってキリスト教徒でない人のほうが読み易いと思うという返事だった。そう言われれば確かに、この著作に頻出する「ナザレの人」は「ベツレヘムで生まれた神の子」ではない。

彼女によれば、約二千年前にごく普通の家族の中で生まれ育ち、思うところがあって四十才前後の数年間にとても目立つ行動をした結果、刑死するに至った一人の男性が「ナザレの人」だ。

そしてそんな昔に遠い異郷の地で生きた人について具体的にあれこれ書いているのは「何の資格があってのことか」と問われたら、彼女はこう答えるのだそうだ。「これは単なるお話です」

それにしても面白くて楽しいわけでもない「こんな話」を私はどうして書こうとしているんだろう、もう止(や)めておけばいいのでは、という思いは何度となく彼女に生じたそうだ。

しかしその度に必ず、「お書きなさい」という促しに他ならないものを生活の中で見聞きした、と彼女は言った。さすがにそのあたりになると、ちょっと私にはついていけない。ともあれ私は、彼女のこの著作は最初から順を追って読んで頂きたいと思う。少なくとも最初の読者である私は、強くそう思った。

青山梢