私(西野鉄郎)は高校生に英語を教えています。N(西野作蔵)君は私の塾のOBです。上智大学の2年生で、ロシア語を専攻しています。帰省中の冬休みのある日、私たちは茶房古九谷(九谷焼美術館内)で会いました。話は弾み、3日連続で、「織田信長と古九谷」について話し合いました。
2日目 新前田三代論 前田三代の虚実
この章(2日目)は本作品の結論を導くための「前田家三代の知識編」という位置づけになります。前田利長はまだ馴染みがありますが、利常になると、よほどの歴史好きしか知りません。印象の少ない藩主というイメージです。そうしたイメージを払拭しながらの説明です。
利家が加賀に「信長の理想郷」をつくったように、利長は高岡を「高山右近の理想郷」にしようとします。加賀一円に南蛮寺を建て、日本で初めてクリスマスを祝うなど「加賀には南蛮の風が吹いていた」といった話を詳細に掘り起こしていきます。
利常「名君」伝説を覆す
(1)冬の陣の「真田丸」
私:さていよいよ前田三代のラストを飾り、利常を語ろう。まずは利常の「名君」伝説を覆すことから始めようかあ。
N:大坂冬の陣でしょう? でも、夏の陣では冬の陣の失敗を挽回する活躍をみせ、3000もの首をあげましたよ。
私:大河ドラマ『真田丸』のヒットと『ブラタモリ』の人気が利常の名君伝説を覆した。そして加賀藩の捏造を暴き出した。松江藩から『真田丸絵図』が発見されたのだ。絵図は最のもので、その「真田丸」は大坂城とは「切り離された」「出城」で、従来の大坂城と「接した」「半円状の砦」ではなかった。
N:捏造とは?
私:加賀藩の「真田丸」の絵図はでっち上げられた「接した」「半円状の砦」なんだ。決戦前日、家康は利常の陣を訪れてこう命ずる。「大坂城をむやみに攻撃するな」。「将軍家の娘婿として堂々と行動せよ」。しかし幸村からの挑発にまんまと利常は嵌まる。「出城」を甘く見て利常は功を焦り単独で突撃。「真田丸」からの一斉攻撃で叩きのめされたのだ。利常22。青い。
N:負傷者の数は?
私:2000といわれる。しかし冬の陣の利常軍の負傷者は実際には5000を超えていただろう。
N:根拠は?
私:利常軍の出陣が冬の陣2万(徳川軍最多)、夏の陣1万5000。その差は5000。利常に負けじと「真田丸」に突撃して、同じく幸村に叩きのめされた福井藩の松平忠直(家康孫)の出陣は、冬の陣が1万、夏の陣が1万5000なのだ。
N:夏の陣の出陣は利常が5000人減り、忠直は5000人増えていますね。