私(西野鉄郎)は高校生に英語を教えています。N(西野作蔵)君は私の塾のOBです。上智大学の2年生で、ロシア語を専攻しています。帰省中の冬休みのある日、私たちは茶房古九谷(九谷焼美術館内)で会いました。話は弾み、3日連続で、「織田信長と古九谷」について話し合いました。
2日目 新前田三代論 前田三代の虚実
この章(2日目)は本作品の結論を導くための「前田家三代の知識編」という位置づけになります。前田利長はまだ馴染みがありますが、利常になると、よほどの歴史好きしか知りません。印象の少ない藩主というイメージです。そうしたイメージを払拭しながらの説明です。
利家が加賀に「信長の理想郷」をつくったように、利長は高岡を「高山右近の理想郷」にしようとします。加賀一円に南蛮寺を建て、日本で初めてクリスマスを祝うなど「加賀には南蛮の風が吹いていた」といった話を詳細に掘り起こしていきます。
南蛮寺キリシタン 金沢には南蛮の風が吹いていた
私:最後に利長のイメージを一新させる「南蛮寺キリシタン」を語ろう。
N:南蛮寺キリシタンって何ですか?
私:右近が26年も前田家にいて、家光のキリシタン禁教令が敷かれてもいないこの時代、右近のキリシタン派閥はキリスト教を布教三昧であったろう。作蔵君、本で最初にクリスマスを祝ったのは金沢だと知ってるかい? 1608年深夜に聖歌がこだました。教会は右近の知行地にあり、能登にもあった。教会とは南蛮寺のことで、加賀藩では、「あらゆる寺が南蛮寺」だった。右近は加賀藩を「アジアのローマ」にしようとしていたんだ。
N:アジアのローマ?
私:信長は安土を「アジアのローマ」を目指して新しい国造りに邁進した。右近も金沢を「アジアのローマ」にしようと南蛮寺での布教をプロモートしていた。
N:では利長は?
私:利家が尾山(金沢)を「信長の理想郷」にしようとしたように、利長は高岡を「右近の理想郷」にしようとした。利長は右近の理想郷を高岡でつくるべく高岡城の設計と町割りを右近に任せた。築城と開町に際して利長は関野を高岡と改名する。
N:なぜ高岡に改名したのですか?
私:高岡の岡は岡=丘=山。高山右近の高山にあやかり、高岡としたのだ。高岡は利長の決意と飛躍の改名であった。
N:ところで先ほど「あらゆる寺が南蛮寺」だと……。あらゆるとは、どういう意味なのですか?