プレリュード
この物語は真実です。ただ真実は、『名探偵コナン』が述べるような「ひとつ」ではなく、事実を経(たて)糸に、また当事者のこころを緯(よこ)糸にする綴織(つづれおり)構造になっています。
したがってこの構造ゆえに、近くで見ると悲劇でも、遠くから見ると笑えない喜劇になることもあります。こうしたことから、主人公綾瀬亘(わたる)が綴れ織る物語が、「綾なし」なのか「綾なす」ことができているのかは、作者を離れ読者に委(ゆだ)ねられています。
Episode1.AI・ブルース
綾瀬の目の前にあるのは、研究室の床に土下座している男子学生の姿であった。高校及び大学と長年に亘(わた)った教員生活においても初めて遭遇したこの光景に、不覚にも綾瀬は動揺した。
日常がドラマの一場面に変わったこの瞬間、綾瀬の頭の中では『半沢直樹』のテーマ曲が響き始めていた。どこか遠くで起こっている出来事のように思われたが、綾瀬は気を取り直し、その男子学生に問い質(ただ)した。
「有谷(ありたに)くん、何のつもりですか? 今回のこと、土下座したらチャラになると考えているのですか?」
有谷は一瞬表情を強張(こわば)らせたが、再び床に手をつき、顔を伏せながら言葉を続けた。綾瀬にとって他の男子学生と区別がつかない韓流アイドルを真似たヘアスタイルの後頭部と背中からは、有谷の感情が読み取れなかった。
「いえそんなつもりはないです。綾瀬先生に本当に謝りたいだけです。申し訳ありませんでした」
土下座することで、この状況から逃れようとする学生の戦略には、むしろ驚嘆の念を覚える。たぶんこの学生も、アルバイトでこうした場面を幾度か目撃や経験して、顧客のクレームをかわすための土下座の威力を知ったのだろう。
もはや彼にとって「土下座」とは、追い込まれた状況から脱出するための強力なゲームアイテムのひとつなのかも知れなかった。
人に土下座を求めることが当たり前のようになっている社会風潮と、そこに生きなければならない学生達の精神風土に、綾瀬はやるせない思いもするのだった。
ただ、土下座という人の尊厳に関わる行為を、状況を乗り切る手段として良しとする有谷の戦略を、綾瀬は軽く受け流すわけにはいかなかった。