目が覚めるとベッドの上で、久しぶりに自分のハッキリとした頭と視界で確認したのは病院の天井だった。意識が回復した僕に家族や病院の関係者の方々が色々と話しかけていたけれど、ほとんど何を言われていたのか覚えていない。

なので、ここからは一部、当時の僕の様子を記した母の手記を基に綴っていく。

事故当日、僕は相当危険な状態だった。

道路を横断しようとしたところでの出会いがしらの事故。衝突してしまったお相手の方も直前まで僕の存在を認識出来ていなかったという。40キロ~50キロのスピードで走行していたため、僕の体は一度ボンネットへ乗り上げる形で大空へ。

二メートルほど宙を舞ったと聞いた。

昏睡状態で地元の病院へと搬送された後も、危機的状況は続く。

車両に乗り上げ、放り出された際に、運悪く頭蓋骨の右側をフロントガラスのフレームに強打していたらしい。それにより頭蓋骨の右側前頭部が一部陥没。

さらに、硬膜外、硬膜下(ともに頭蓋骨と脳を覆う膜の一部)に血腫が出来ていた。

時間を追って出血量が増え、脳が圧迫されており、このままでは翌日まで命が持つか分からない。そのため、救命を目的として、血腫除去と減圧のため陥没してしまった骨弁の除去手術が行われた。

無事、手術は成功。ICUにて人工呼吸器装着の下、24時間管理体制となる。

朦朧とした意識の中、二回目の手術までの日々を過ごした。

幸い、術後翌日には自発呼吸も出てきていたため、人工呼吸器が外された。

二日目には酸素を投与しなくても呼吸状態が安定。体へ刺激を与えられると、手を持っていき払いのけようとする動きが見られるまで回復をしていた。

しかし、意識がハッキリしている時としていない時の波がまだあり、声や言葉が出ず、表情も無表情。

日が経つに連れ、手の抑制もなくなりゴロゴロと横向きになったりはするものの、外からの刺激に対して反応が今一つだった。

どんどん外部刺激を与える必要があるため、好きな音楽を聴かせたり、漫画を見せてみたりと家族も色んなことを暗中模索状態で試す。

けれど、情報処理が追い付かず、疲れるのか三ページほどでやめてしまう。音楽も、聴きながら眠ってしまった。

この頃の僕の会話は、「はい」か「いいえ」を首の動きで伝えるのみだった。

そのため複雑な会話(自分が言いたいことを伝えるなど)は筆談で行っていた。

試しに父がペンを持たせてみる。「言いたいことを書いてみな」と言うと、ノートにひらがなで「ねたい」と書いていたようだ。

 

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