その一 鎌倉権五郎景正 ~御霊神社~
今も地元の人々から敬愛される、勇猛で心優しき鎌倉のレジェンド
「鎌倉人」について語り始めるとき、まずもって語るべきは鎌倉という氏を名乗るこの人である。諸説あり、謎に包まれた部分も多い人物だが、勇敢で猛々しい反面、領民を慈しみ領民から慕われたというエピソードも多く、今もその優しさや温もりを感じさせてくれる魅力的な「鎌倉人」だ。
景正と景政、どちらの字を使うかは迷うところだ。この人を祀る鎌倉坂ノ下にある御霊神社(ごりょうじんじゃ)の看板や案内書きでも「正」と「政」の両方が使われているが、古くはこちらが使われたとされる景正をここでは使うことにする。
1.桓武平氏と三浦氏
鎌倉権五郎景正(ごんごろうかげまさ)は、平安時代の後期、1069年(延久元年)ころの生まれで、鎌倉の隣三浦半島を本拠とした三浦党の一人である。従って彼を語る前に、まず三浦氏についてふれておきたい。
三浦氏は他の多くの東国武士団と同様に桓武平氏の流れをくんでいる。桓武天皇は781年(天応元年)に45歳で第50代天皇に即位した。「ナクヨウグイス平安京」で年号を暗記したので歴代の天皇の中ではなじみのある天皇の一人だ。きっと皆さんも同じだろう。
この桓武天皇、実は大変に子沢山で、70歳で崩御するまでに26人の妻を持ち16人の皇子(みこ)と19人の女皇子(ひめみこ)をもうけたそうだ。
これだけ多くの皇子、女皇子がいたが、皇太子にできるのは一人だけ。また、皆を養うのは経済的にも大変なので、多くの皇子を臣籍降下させた。
そのうちの一人葛原(かづらはら)親王の嫡男高棟王(たかむねおう)は825年(天長2年)、平の姓を賜って臣籍降下した。
「平家の構造は三階層」と言われているが、「平家にあらずんば人にあらず」とうそぶいた平時忠(ときただ)など、都で貴族化した第一階層の平家はこの高棟王の流れだ。また、高棟王の弟高見王(たかみおう)の子高望王(たかもちおう)も、889年(寛平元年)に皇籍を離脱して平の姓を名乗った。平高望である。
平高望は898年(昌泰元年)上総介に任じられて任地に赴いたが、この平高望の嫡男国香(くにか)の流れで地方の軍事貴族化したのが平家の第二階層、すなわち平清盛に繋がる伊勢平氏だ。
そして、平高望の諸流から平家の第三階層が生まれていく。三浦氏はこの平高望の庶流として生まれる多くの第三階層の平家のひとつに位置付けることが出来る。
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