プロローグ
一体これは、何度同じ歴史を繰り返した末の出来事なのだろう。
その日、人類は、どうやら初めて二〇二五年より先に歴史を刻んだらしい。
イズミは地球を発つ前に、そのことを何度も聞かされていた。「初めて」とはどういうことなのか――あらゆる未来は常に「初めて」経験されていると思うのだが――彼女はその言い回しに、いまいちピンとこなかった。彼女は窓に近づき、金属のフレームにそっと指を触れた。高密度ガラスの向こうに、漆黒の宇宙空間が広がっている。あの懐かしい青い星は見当たらない。
国際宇宙ステーションが地球を発ってからもう随分経っている。このあいだ木星のそばを通ったが、あれは何日前だったか。昼夜が無いので一日の感覚が不明確である。
つい先程、同乗の老人がやってきて窓の外を指し「地球はあっちの方向だ」と言った。この人物は天文学者で赤色超巨星の権威。今回のプロジェクトの発起人の一人である。白髭は伸び放題で、服はいつも同じものばかり着ている。だが人は見かけに寄らないものだ。とりわけ天才と称される人は。
彼は「大丈夫」と口の中で何度も繰り返し、部屋の外へ消えた。
老人のコードネームは「ノア」。
ちなみにイズミは「エヴァ」。
他のクルーにも、全員そんな名前が付けられている。
この宇宙旅行は、とある伝承をもとに計画され、何世代もの科学者によって引き継がれ、今日(こんにち)実現に至った。伝承は四千五百年も前のもので、キリスト教の聖書より古い。それなのにキリスト教にちなんだ名前がついているのはおかしい――イズミは密かに思っていた。だが口には出さずにいた。
ふいにステーションにサイレンが響き渡った。
イズミは反射的に身をすくませた。サイレンはすぐに止み、アナウンスが流れた。聞きなれたハヤシの声である。
「ぼくだ、『アダム』だ。今のコールは緊急警報ではない。安心してほしい。みんな分かっていると思うけど、まもなくあの瞬間がやってくる。そのことを知らせたかった」
声は感傷的な調子で、少し間をおいて続いた。
「方向は×××……、いま船長に頼んで左舷をそっちに向けてもらっている。爆発から数十秒後、衝撃波が到達するかもしれない。でも、ちょっと揺れるくらいだから、心配しなくても大丈夫――ということだ。じゃあ、みんな、最後にしっかり故郷を目に焼き付けて」
アナウンスは終わった。
ついにこの時が来る――この事態は数年前から科学的に予見されていた。四千五百年前の伝承にも述べられている。
人類の積み上げたものが、一区切りになる瞬間。
新たな未来が始まる時。
イズミは窓の外を見た。限りない闇の先に、はっきりと白い点が見えた。彼女は目を閉じ顔を伏せた。ぐんぐん強くなる光は、彼女の薄いまぶたをすりぬけて、網膜で激しくまたたいた。
Chapter1 天変地異
ゆるやかな風、緑のかおり。まばゆく差しこむ夏の光。
ここは群馬県嬬恋村、山の中腹にある笹見平(ささみだいら)キャンプ場。
空は真夏ながら涼しげな水色で、それにならうように、山も、草原も、森も、やさしい薄緑色である。南にのぞむ浅間山は、ぎざぎざしたてっぺんに、かすかな白雲をたたえている。
嬬恋村は浅間山と白根山に抱かれた高地で、キャベツの一大生産地として名高い。神奈川県の三浦市が春キャベツ、次いで夏の出荷を担うのが嬬恋村である。
笹見平は村内の高台に位置し、夏でも涼しく、日本で一番のどかな夏を楽しめる場所といっても言い過ぎでは無い。どうやら古(いにしえ)からそうだったらしく、縄文時代の集落の遺跡が数多く見つかっている。古代人も夏の暑さを避けてここに居住したのだろう。
「はーい、みんな」
規則的に手を打つ音に重ねて、若い男の声がした。
広場にばらばらにうろついていた私服の中学生たちは、 面倒な視線を男に向けた。男は白Tシャツにブルージーンズ。短髪で、顔立ちは嫌味無くスッキリ整っている。だが、どことなく不安そうに目が泳いでいる。
「ちっ」
そばかすの茶髪少女が舌打ちした。
「何あれ。大学生ったって若造ね。ビビってんだわ」
横にいたピアスの男子中学生――口まわりの産毛が濃く、まるで不精髭のようで威圧感がある――が、
「合わせてやらなきゃ。大学生の中には俺の施設のOBもいることだし」
「合わせる? まるでお世話キャンプだね。ウケるんだけど」
二人は、ふふ、と薄笑いし、他の中学生同様にぞろぞろと大学生の元へ歩いていった。