犠飛の多さNo.1

長嶋の「真の4番」を示すすごさはまだある。その犠飛の多さである。犠飛は犠牲バントのフライ版で犠牲フライとも言われる。これが何故「真の4番」を示す指標の1つなのか。後“一点”あれば勝利する、次の点がどちらのチームに入るかが勝負という時が多々ある。そして、無死、又は一死でランナーが三塁にいる場合である。

こういった時は何もホームランである必要はなく、もちろんヒットの必要もない。とにかくまず一点なのであるから何でもいいと言える。犠飛を(比較的)簡単に打てる打者であるならばいうことはない。こういう場面であればまず一点は確実と期待できる。

写真を拡大 [表2]通算犠飛数等(通算70 個以上に限定)

長嶋が走者を3塁においたときの打率は0.347(810打数281安打)である。彼の通算犠飛数は90である。従って3塁に走者を置いたときの本塁へ還す率は0.412(900打数371安打・犠飛)の驚異的な数値となる。ますますV9が偶然でないことを裏付けている。

犠飛を公平に一試合換算でみると0.04以上の打者は二人しかいない。その中の一人が巨人の原である。一試合換算では一位である。やはり巨人の4番はどこか光ったところがある。また、野村は3000試合以上をこなしながら一試合換算で0.0375の数値はやはりチームが勝つことを意識した4番打者とここでも言えるだろう。

※犠飛として記録されるのは1953年からである(1939年、1940年は記録されている)。したがって川上哲次は35個にとどまっている。

【参考】V9期間にみる長嶋の勝利打点

他の打者を含む充分なデータがないために参考としているが、またまた興味深い数値がある。勝利打点である。

表3は巨人のV9達成期間中の主な選手の勝利打点の数値である。(『プロ野球 記録・奇録・きろく』:宇佐美徹也 文藝春秋より)

写真を拡大 [表3]巨人のV9 達成期間中の主な選手の勝利打点

この勝利打点というタイトルは現在はない。1981年〜88年まで設けられていた。ただし、セ・リーグは2000年まで表彰という形で続けられた。この勝利打点というのは公認野球規則によると「勝利チームが最後に勝ち越した時に記録した打点」(現在はない)とされている。

現在ないのは、必ずしもその得点が見ていて納得出来る形で勝利をもたらしたものと思えないもの、また、試合状況によっては分かりにくいことがあるためであろう。明確な理由は示されていない。しかし、たとえそうであろうと、勝負強さやここだという時に打てる打者であることを示す指標にはなると思う。

表3はそれを表している(ONの数値が突出している)。王は通常の打点で長嶋を上回りながら勝利打点では10点の差をつけられている。王敬遠で長嶋がいいところを持っていくからだとしても通常打点で115打点の差をつけながらこの結果である。まさに長嶋は“期待に応える男”だったことを示している。

以上が、シーズンの記録から見た長嶋である。