中国に赴任する際、会社に家族同伴を認められていたが、当時2歳の娘のリサが喘息を持っていて、日本でも中国のPM2・5が大きく報道されていたことから、心配で中国に連れてこられなかった。赴任当初は、洋子も子育てに悩むことが多く、よく電話で相談してきたが、自分も赴任したばかりで精神的に余裕がなく、じっくり話を聞いてあげられなかった。そのため洋子は広島の実家に引っ越し、両親の支えのおかげでようやく夫のいない生活に慣れてきたところだった。

「リサは元気?」神岡は娘の様子を聞いた。

「元気よ。幼稚園で友達と楽しそうにやっているわ」洋子の声も元気そうだ。

「実は一つ相談したいことがあるの。お母さんの友達から幼稚園でお手伝いしてほしいと頼まれた」

洋子は結婚前、幼稚園の先生だった。子供が大好きなことは神岡も知っている。

「それで?」 神岡はなんだか嫌な予感がした。

「何度も断ったんだけど、子供たちがかわいそうで、1年でもいいから助けてほしいと言われて、とうとう断りきれなくなっちゃって。あなたが帰ってくるのは1年後でしょう。1年間アルバイトをやってみようと思っているんだけど、どうかな?」

「1年も!」昨日帰任命令が出て、2ヵ月後に東京に戻らなきゃいけないことはまだ洋子に知らせていない。

「そんなにびっくりしないでよ。産休を取っている先生が1年後に戻ってくるから、あなたが東京に戻る頃にリサを連れて東京に帰るわよ」

神岡は突然頭痛に襲われ、これ以上会話をしたくなくなり、「分かった」と小さい声で言った。

「え? 何? いいの? ありがとう! 浩二はやっぱり私のことを一番に分かっているのね! 疲れているでしょうから、ゆっくり休んで。バイバイ!」

洋子は神岡の気持にまったく気がつかずに電話を切った。

「会社に追い出され、家に帰っても一人か! おれは何のために働いているんだ!」神岡はつぶやいた。突如無性に寂しさに包まれ、どうしたらいいのか分からなくなった。冷蔵庫を開け、昨日買ったお酒を取り出してみたが、もうすでに空になっていた。そういえばここ1ヵ月、アルコール量が急増し、1日1本を空けた日も少なくなかった。

「頭痛い~」 神岡は力尽きて、ベッドにバタンと倒れてしまった。