家と庭

家は日本家屋の造りだった。

舅が材料を自ら選んだらしく、柱は太く、木目を生かしたしっかりとした住み心地の良い家だった。玄関も広々としている。居間・客間・台所・各部屋も広い空間がゆったりとして心地良さを感じた。廊下も広く長く陽当たりも良く人間の求める要素を満たしていた。

庭も広く植木の松は良く手入れされており、緑豊かな景色は、日本家屋にふさわしい佇まいである。

春は梅の花が咲き、鶯が止まり木にして囀る。夏には、大輪の白百合が誇らしげにシャンと咲き、秋には色とりどりの秋桜が風に優しくスイングする。冬には、寒椿が真っ赤な花に真っ白い雪化粧をして冴えを与える。

そんな風に四季を織りなし、私のレンズに映し出される世界もまた、素晴らしい。
言い争う事などしない、各々の輝きを放ち生きている。生命の源を感じ心が癒される。

人々が、花を生けたり飾るのは生活のあるべき姿であると改めて思えた。生活の一部として存在し、必要であるのだ。花は、咲く時期がくれば自然の法則に準じて咲き、やがて、散っていく。ありのままの姿ゆえ、普遍の美しさと、潔さを兼ね備えている。そんな風に私も生きてみたい。

庭には池があった。澄みきった水面下には、何匹もの鯉が生かされていた。朱色の着物を羽織っているものや、金色の帯を締めたものがゆうゆうと泳いでいた。気持ち良さそうな表情をしていた。時折、水面に口をパクリと突き出す動作は、水面に空気の風船を描いて見せたが、静かな生き物だと見直した。鯉とは本来こういう生き物だと再確認した。

人は喋らないと、鯉のようにいられるのだろうか? 互いに話す行為が遮断されたとしたら、口論にならずお互いを傷つけずにすむのかもしれないと時には言葉なきも良いのかもしれないと想像していた。