私(西野鉄郎)は高校生に英語を教えています。N(西野作蔵)君は私の塾のOBです。上智大学の2年生で、ロシア語を専攻しています。帰省中の冬休みのある日、私たちは茶房古九谷(九谷焼美術館内)で会いました。話は弾み、3日連続で、「織田信長と古九谷」について話し合いました。
2日目 新前田三代論 前田三代の虚実
この章(2日目)は本作品の結論を導くための「前田家三代の知識編」という位置づけになります。前田利長はまだ馴染みがありますが、利常になると、よほどの歴史好きしか知りません。印象の少ない藩主というイメージです。そうしたイメージを払拭しながらの説明です。
利家が加賀に「信長の理想郷」をつくったように、利長は高岡を「高山右近の理想郷」にしようとします。加賀一円に南蛮寺を建て、日本で初めてクリスマスを祝うなど「加賀には南蛮の風が吹いていた」といった話を詳細に掘り起こしていきます。
家康の天下構想(1)前田対策No.2戦略
私:ここからはがらりと話題を変えて、家康の対前田戦略を語ろう。それを、No.2戦略と呼ぶことにするね。No.2戦略とはNo.1がNo.2を縁戚で一体化してNo.2を乗っ取る戦略だ。つまり前田を徳川と一体化して、前田の藩主を徳川の血でつなぐ。すなわち家康の根底にある思想は「No.2を裏切らすな!」なのだ。
N:「No.2を裏切らすな!」とは特異な思想ですね。
私:家康の祖父も父も主筋(信長)までもが家臣の謀反(裏切り)で殺されているからね。
N:早い話が家康の国造りに前田を完全に組み込むのですね。
私:こう考えるとわかりやすいかな? 前田三代(利長・利常)は政治的に「自公政権」だった。「自」は徳川。「公」は前田。そして、4代以降、「公」は「自」に完全に吸収された。それを「徳川の前田」と呼ぶ。
N:その仕掛け人は?
私:本多正信(家康の参謀)かな。藩主利常指名も、珠姫降嫁(利常6歳、珠姫1歳)も、利長の隠居も、本多政重家老採用も、文化立藩政策も、すべてが家康指令なのだ。
N:利常の賢さに驚いた利長が利常を後継藩主に指名する。それは作り話なのですか?
私:そうなるね。関ヶ原後、前田の地位を83万石から120万石に高める処遇こそがNo.2戦略の証拠なのだ。
N:どういうことですか?
私:120万石は上杉、毛利の関ヶ原「前」の石高で、徳川は前田を外様No.1の地位、つまりかつてのNo.1だった上杉、毛利の石高にまで高めたのだ。
N:加賀120万石の意味はそれだったのか!