第一章 あの彼女
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夏の陽光が惜しげもなく聳え立つ入道雲を抱きしめながら、城跡の静謐な空間を凛々しく調和させていた。
「待ってよ、鉄平さん」
綾乃は、機嫌が良いと父親を名前で呼ぶ。
今日もきっとご機嫌なのだ。追つくと私の腕に恋人の様に甘えて歩いた。いつか、こうしてバージンロードを歩く日がやって来るのだ。寂しいような嬉しいような、複雑な気持ちになった。
綾乃の白いワンピースと麦わら帽子が、無抵抗に晩夏の風景に溶け込んだ。休日に滝沢鉄平は珍しく、家族四人の顔が揃ったので昼から城跡公園を散歩した。
昔は、よく来たのだが子供達も中学生位からは、クラブ活動や友人と一緒にいることが多く、揃って来るのは久しぶりだった。小さい時は、帰りにファアミレスでパフェが食べられると、喜んでいたのが懐かしく思い出された。
鉄平も青春時代に思いをはせた、この公園で彼女と二人でよく散歩をした。あれから時間がどんどん流れて、今は自分だけの思い出の世界だった。いつの時代も変わらず公園には、近所の子供たちが競って蝉取りに来ていた。
「静かに歩け」と忍び足で蝉に近づくが、逃げる蝉の羽音がむなしく聞こえた。鉄平の夏休みを呼び戻した。冷やした麦茶の水筒を首にかけて帽子を被らせて、口癖のように「気を付けてね」と、言った母の顔が浮かんだ。
日が暮れるまで蝉取りをして、汗が渇き塩の様に張り付くまで遊んだのを、昨日のように思い出した。寒蝉が去る夏を「つくづく惜しいー、つくづく惜しいー」と叫び、限られた時間の主役を演じていた。
蒼空が、今は石垣だけになっている城跡に、天守閣の荘厳な姿を夢に呼び戻そうと頑張っていた。
綾乃が嬉しそうに話しかけて来た。
「鉄平さん、今日ね、友達が遊びに来るの」
「どんな友達?」
鉄平は、昨夜に妻の光里から聞いていたが、干渉はしない方針なので、知らないことにした。光里が「あれ?」と一瞬足を止めて鉄平を見て微笑んだ。
「同じ大学の一番仲良しの友達」
笑顔で答えた。
「その仲の良い友達は綾乃の彼氏なの」
女の友達だと知っていたが、ひやかす様に言った。綾乃は、年頃の娘らしく恥じらいの顔をこわばらせた。父親として、少し罪悪感を持った。
「残念でした。外れです」
「何が外れ」
「仲の良い女の友達です。名前は上田さん。音楽を聴きに来るの、それから志希川へ蛍を見に行くの」
鉄平は高校時代に、その川べりを友人達とふざけて走ったのを懐かしんだ。
社会人になっている兄の倫太郎が、妹の顔を見て言った。
「綾乃、蛍はもう飛んでいないと思うよ」
「どうして? 私達が小学生の頃は家族で夕食の後で蛍を見に行ったよね」
「最近は、川口団地の上流の開発が進み蛍の生息地が少なくなったらしい」
兄らしい生体系の説明をしていた。
大人になって長い時間を過ごした鉄平から見ると、今まさに社会人としてスタートした倫太郎と、これから社会に出ていくための準備をしている綾乃に対して、急に距離を感じる時が有る。山道を頂上目指して登っていく者と、麓に向かって下りていく者との差なのだろうと考えた。
「まだ。蛍。飛んでいるよね」
綾乃は独り言の様に言って、母親に助けを求めた。
「ねえ、お母さん。まだ蛍は飛んでいるよね?」
「そうね、夜空に蛍星がいっぱい輝いてとても素敵よね」
光里は、にこにこして兄の倫太郎に、あの辺りは暗いので一緒に行ってあげてと頼んだ。
「そうだね。美人の二人には護衛が必要だよね」
「兄貴、よろしく。二人の美人とデートが出来るのよ」
「その美人に会うのが楽しみだな。早く暗くならないかな」おどけて言った。
鉄平は、昔の仲間と恒例の『働き蜂の会』で食事の予定だ。二人の美人と一緒に志希川にはいけないので、兄に二人の事を頼んだ。
「残念だが倫太郎、美人の二人の護衛を頼むよ」
「はい、承知いたしました、父上様」
「それじゃ、まるで時代劇のお姫様ですね」
光里が嬉しそうに倫太郎に微笑んだ。
城跡の上から見える、蛇行して流れる志希川を指さしながら言った。
「そうそう、確かお父さんが通っていた、小学校は志希川の近くでしたよね」
鉄平は「そうだよ、あの大きく曲がっている辺りで、よく魚とりをしたよ」と説明をした。
もう、蛍はどうでもよい話になったようだ。鉄平は感情を抑えたが、ふとあること思い出して無意識に苦笑いをしてしまった。
「鉄平さん、何を笑っているの?」
綾乃はそれを見逃さなかった。
先ほどの、ひやかしの反撃みたいだ。
「うん、志希川を見ていると小学校時代の友達を思い出してね」
「ふーん、鉄平さんの小学校時代ね」
「お父さんだって小学校時代はあったよ」
歴史の重みで丸くなっている石畳を踏みしめながら小高い山の天守閣跡に向かった。
突然、前を歩いていた綾乃が振り向いた。
二人に両手で抱きしめる様に開いて嬉しそうに聞いた。
「鉄平さんとお母さんの、なれそめを教えて」
鉄平は、すぐに妻に押し付けた。
「お母さんに聞いたら」と妻の肩を叩いた。
光里は、間髪を入れずに話をそらした。
「あーそうだ、桜山を見て思い出したの、恒例のお得意さんのゴルフコンペは何日でした?」
「毎年九月の第三金曜日だよ」
「そうでしたね、今年も参加されるのですよね」
「うん、もちろん参加するよ」
鉄平も笑いながら横目で、綾乃を見て返事をした。
話をうまくそらしたと、二人で顔を見合わせた。綾乃は「もーう」と言って小さな子供のように頬っぺたを膨らませた。
「そろそろ帰ろうか、通り雨が来そうだよ」
「そうですね、何だか空模様が怪しくなってきましたね」空を見上げた。
遥か遠方で、ごろごろと雷が響いた。
それを合図に、休憩中の寒蝉が慌てて一斉に鳴き始めた。先ほどまで夢中で蝉取りに来ていた子供達も、足早に家に帰って行った。